学期も終わりに近づきつつあり、大体どの学生が落ちそうかも目に見えて来る今日この頃…そんな数人に復習レッスンに来ないかと声をかけてみた。一人は最近中国にいる義父が亡くなったとのことでバタバタしているらしく前回のテストでは白紙答案を提出した学生。もう一人は鬱病の傾向がある上数回病気にもなり欠席が目立った学生。他は私の知る限りでは個人的な問題はないがただ遅れている学生たち。
が、鬱病の子は私の提案に感謝するどころか「私っ、明後日他の科目で大事な試験があるんですっ。行けませんっ。」とツンとした感じで言い放った。「そう、別に来なくちゃいけないって言ってるわけじゃないのよ」となだめている(?)と中国人のほうは「うん、じゃー、ボクは行こっかな…。何時ですか。」彼と時間を決めていると鬱病のほう、気が変わったのか「じゃ、私も行きます…。」他の数人とは連絡が間に合わなかったので違う時間にした。大体人数が多くなり過ぎては復習セッションの意味がない。
結局翌日のセッションに来たのは鬱病のほうだけ。中国人の学生からは「他の科目の都合で急に行けなくなった」と後からメールが来ていた。鬱病の彼女はやはりちょっと普通の学生と態度が違うなと思った。と言うのは教えている時に彼女のワークブックの今までやった問題を見ようとすると手で覆うようにして見せてくれないのだ。間違いを見られるのが恥ずかしいのはわかるが、ここまでカバーするヒトも珍しい。黙っていると無表情なのでなんとか面白いことを言って笑顔にさせるのにひと苦労だった。決して頭が悪い学生ではないのだが、だからこそ日本語でこんなに遅れているのが自信の喪失につながってしまっているのかもしれない。
次の日の他の学生とのセッションは楽しいものだった。個人的にノートを見たり問題点を話したりするとどこでひっかかっているのかがよくわかるし、又、普段は聞けないようなコメントも色々聞くことが出来た。例えばA君は「漢字が一番好き。一度見たら大抵覚えられる。漢字の勉強は楽しい。」Bさんは「最近段々文の組み立て方がわかってきた。」こんなことは授業中には言ってくれないことだった。
本来なら教師には自分の部屋があって常にそこを本拠にできて(勿論フルタイムで雇われていて)学生はいつでも質問に来られる状況であるべきだ。が、私のようなカジュアルの場合、まずは他の仕事との時間の調整、その上場所の手配をして初めてこのようなセッションを設けられる。そしてそれが完全に無給なのは言うまでもない。しかしこのような時間は楽しくて給料を貰えないのは気にならないし、日本語教師としての本当の仕事 ー学生と触れ合い、日本への興味を高め、日本語学習の手助けをすることーをしている充実感があった。それはともすれば難しい職場の人間関係や毎日の事務的な義務で忘れ去られてしまいかねない愉しみなのだ。それならばこれは試験前になってからでなく、学期中を通してしなくてはいけないことだったような気もした。
とにかくあとは全員の合格を祈るだけだ。最終的に運命は学生自らの努力にかかっている。こんな時教師の存在の無力さも実感するのである。
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