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平(たいら)和(かず)

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Cultural MarginalとChange Agent



又バーグランド氏の本に面白い言葉を見つけた。"Cultural Marginal" …これは「文化と文化の境目にいる人」を指すのだそうだ。外国に長年住むと国籍は日本のままでも異文化を吸収した後は、中身がややずれてくることが多い。そんな人が帰国するとなかなか日本の社会にすんなり復帰できない。帰国子女の抱える悩みもそこにあるはずだ。バーグランド氏もそんな女性に出会っていくつかアドバイスする。その中にはCultural Marginalである人は「チェインジ・エイジェント」になりやすいという利点があるということも入っていた。"Change Agent"とは「文化の現状を批判し、新しい文化の理想像を掲げ、現状から理想へと道を示す」、例えば坂本龍馬や福沢諭吉のような人のことなのだそうだ。

偶然これを読んだ頃に日本のニュースを見ていて、フィンランド出身のツルネン・マルティさんという国会議員がいることを知った。彼は確かにこのChange Agentなのだ。
ツルネン・マルティさんのスピーチ

勿論バーグランドさんだってそうだろう。「ソト」の人間からは「ウチ」にいる人間自身よりもよく「ウチ」が見えるのだ。だから皆が気づいていないことを指摘できるのだ。そして大変励ましになるコトバがあった。異文化コミュニケーションの大事なこととして「受信ばかりでなく、発信することが大切である」。外国人と接して異文化を体験して「へーえ、違うんだなあ。勉強になったなあ。」と思うだけでなく、「ところでね、日本ではこうなんですよ。どう思います?どうしてだと思いますか。」と働きかけていかなくてはいけないということだろう。それは日本にいても海外にいても出来ることだと思うし、日本語教師ならば勿論コトバの伝授だけに専念せずにこうしたことも率先して実践していくべきだと思う。

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固定観念、偏見、ステレオタイピング

数年前、いとこがこちらに遊びに来た時、彼女がなんと「うわあ、外人ばかり歩いとる!」と叫ぶので、ちょっと待ってよ、ここではアナタが「外人」なんだよ、と指摘しなくてはならなかった。(笑)

そういえば私がオーストラリアに来て間もない頃、幾度か道で時間を聞かれたのに驚いた。なんでよりにもよって「外人」の私をつかまえて質問するのだろう?と思ったのだ。が、豪州は移民の国であるから「アジア人=外人」という考え方は全くない。まさか英語もろくに話せない、ここに着いたばかりの人間だとは思いもしなかったのだろう。

今はもう町を歩いていても私は回りの人間が自分と異国籍であることをいちいち認識しないし、それは職場でもあまり感じないままでいることが多い。そしてこのような「透明感」はとてもいいことだと思っている。それは日本で○○さんは青森の人、○○さんは鹿児島の人、といちいち意識しないで付き合うのと同じだ。(たまーにイトコちゃんのように、「あれっ!回り外人ばかりだ〜!」と気付いてひそかに笑ってしまうこともあるが…。)

が、何か人間関係がうまくいかなくなると「彼/彼女は○○人だから」といったコメントを耳にすることがある。日本人はよく「オーストラリア人だからやることが適当/遅い/あてにならない…」などと思ったり言ったりしているようだし、勿論豪州人だって「日本人だから言うことが細かい/うるさい/仕事のことしか考えない…」などなど色々言ってるかもしれない。こういった固定観念というのは誰でも持っているものだろうが、こんな決めつけ、ステレオタイピングは異文化コミュニケーションに限らずあらゆるコミュニケーションを阻止してしまう要素ではなかろうか。このような観念は冷静に考えてみると当てはまらないケースがいくらでもある。例えば「日本ではサービスがいい」。一般的にはそうだろう。でも「例外」も多く経験した。金勘定に忙しく、レジの真ん前に立っている客を完全無視する店員。車内に食べさしのランチやソフトドリンクが散らばったタクシーの運転手はこちらの質問にろくに答えもしなかった。それなのに海外在住の日本人は現地の「サービス」をこきおろし、「日本ではありえない」と憤る。が、現実では日本でもありえる、のだ。「オーストラリア人は時間に関してテキトー」というのも一概には言えないと思う。私の家に来る生徒は毎週朝十時きっかりに着く。授業料の支払いも忘れたことがない。

前回のエントリーで紹介した「日本から文化力」(ジェフ・バーグランド著)に「私たちはもっと自分の固定観念がつくられるプロセス、固定観念の働きを意識しないといけないのです。」という文があった。私たちは「例外」を「例外」としてしか認めず、既に確立されている「固定観念」を変えていくことはない、とも。

では固定観念はいつどこで生まれ、どのように頭に植え付けられるのだろう。私が子供の頃、朝鮮人学校のことを「チョンコウ」などと言って軽蔑する人達が回りにいた。幼い心には理由もなくそこが何か悪い所なんだな、という意識が芽生えた。豪州に来た時も「○○人は、こうだからやんなっちゃうわよね。」などというコメントを何度も聞いた。そんなふうにして譲り受けた偏見は、まずは疑ってみるべきだろう。成人ともなれば自分で自分の経験、教養をもとに意見を持たなくてはいけない。異文化と接する際にその文化の「傾向」を知っておいて損はないはずだが、否定的な決めつけは、既に過去にいくつもの戦争を引き起こしているのである。

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自文化と異文化



まだ異文化コミュニケーションの本というと学問的でとっつきにくい雰囲気のものが多いが、最近よい本に巡り会えた。ジェフ・バーグランド著の「日本から文化力」。著者は日本のテレビにも出ているということだが私は全く知らなかったのでその分何の先入観もなく読んだ。(日本語の本。)結果的に色々と考えのタネを貰ったのでこれから少しずつエントリーにしてみたいと思う。

まず、前回のエントリーでは、最近特に職場でちょっと頭に来ている同僚がいるので随分と否定的なコメントもしてしまったのだが、この本に次のような文があり、ハッとさせられた。「特に自分にとって一番大切な異文化というのは、ちょっと苦手な人の存在です。苦手な人は必ず価値観が違います。同じ会社の中で苦手な存在がいるなら、その人は貴重な存在です。鏡のように自分の姿を映してくれて、自分にないものを提供してくれる人なのだから。」

確かに「異文化」とは必ずしも違う国籍の人間の文化のことを指すわけではない。人間一人一人が「自文化」を持っているから、日本人同士でも、同じ町の出身でも、はたまた同じ親のもとで育ったはずの兄弟姉妹でも、異なる価値観と「常識」を持っていることがある。

さらに著者はTerrell Jonesの「十四の多面性」(経歴、学歴、収入、結婚歴、戦争体験歴、宗教信条、地域、子育て経験、性好み、年齢、人種、民族、性別、体の状態)という内面的・外面的アイデンティティ形成の要素を挙げ、一般に「友達」になるのはこれらが似ている人なのではないか、と述べている。

自分と似ている人とつきあうのは楽だ。意見も衝突しないし、気も使わない。が、ある意味ではバーグランド氏の言うように「似たような人との接触からは得るものが少ない」のかもしれない。その点「異文化」は「自分にないものを提供してくれる…新しい常識・新しい考え方・新しい価値観を与えてくれる」。

例の同僚は確かに私と価値観がかなり違うヒトだ。しかしこの人から学ぶことは多い。例えばなんだかんだとうるさいけれど、プロ意識の高い人であることは認めるし、「こんなふうに人の悪口ばかり言うのはいけないことだな。」という教訓を与えられるのもこの人の「異文化」のおかげなのだろう(苦笑)。要はバーグランド氏の言うように「相手と自分との違いを前提にし」冷静に相手を観察する。「(この人は)これまで、どういう生き方をして来たのだろう、いま、何を考えて暮らしているのだろうか…」というふうに。

異文化コミュニケーションを提唱する身でありながら、相手が日本人であるがゆえに大切なことを忘れてしまっていた。日本人同士でも異文化は存在する。カッカしないでこういうアプローチに変えてみよう。

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