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平(たいら)和(かず)

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Lady Second

先日、三菱系で働くイギリス人の生徒が、日本の家庭に招かれた時の話をしてくれた。彼が一番驚いたのは「奥さんが常に台所にいて、僕たちと一緒に話したりせず、まるで女中かなにかのように働いていたこと」なのだそうだ。まあ仕事関係のお客さんなら日本ではそれが普通、と言ったのだが、彼はどうもひっかかるようだった。

私も初めてこちらに来た時は、男性にお酒を注いであげたりしてしまったが、こちらでは男性が女性に、が普通。歩く時も女性を前にして歩くし、エレベーターに乗る時も男性が「どうぞお先に!」とジェスチャーしてくれる。しばらくは「なんか、まるで王女様になったみたい!」と喜んでいたものだ。

日本から叔父夫婦が訪ねてきた時も、夫が叔母に常に車のドアを開けていたから、「あんたはこんなこと絶対しないっ!」と叔父はドヤされていた(苦笑)。(夫も私にはもうしてくれないのだが。)

これに慣れてしまうと、帰国してもスッと先に行こうとして男性から冷たい視線を浴びてしまったりする。目上の男性と歩いている時は常に「後、後」と呪文のように唱えていなければ忘れそうだ。

こんな事情だからこちらの人が日本に行くと「日本での女性の扱い」にショックを受けるらしい。優先されなくてもいいから少なくとも平等な扱いまでは進歩して欲しいように思う。

プレゼンテーションの出来映え

先日(十一日)のエントリーに書いたプレゼンテーションがあった。あの、発表するなり苦情続出、一人はプレッシャーで泣いて教室を飛び出したという、あれである。

結果から言えばまあ悪くなかった。本番では随分原稿に頼っていたが、授業前は皆必死で暗記しようとしていたので、その面では無駄ではなかったと思う。必ず五分、そして何か見せる物を持って来るように言ったので、皆時間稼ぎに小物を使っていたきらいもあったが、まあビジュアルな物で言っている内容が補足できたことは確かだ。

先日泣いた彼女は日本のお菓子を色々と持って来て説明。最後に皆にお菓子を配るというサービス付き。一番シャイな男の子は「げげげの鬼太郎」についてのプレゼ。「これはねずみ男です。酒と女が好きです。武器は口臭です。」って、もうちょっと高度な文型も使って欲しかったが、まあ彼にしては上出来かも。もう一人プレゼンテーションを嫌がっていたのは足全体に入れ墨の入っている一見怖いお兄さんである。もし町中で会ったら絶対目を合わせたくないようなタイプだ。が、彼は今日緊張して、絵などを見せる時に手がガタガタ震えていた。プレゼではあまり伝わらなかったが、原稿は素晴らしかった。絵を描くのが好きなこと、何年も前から小説を書いていること、ヘビーメタルとクラシックギター(!)が好きなこと等々。段落ごとにきちんとまとまっていて高度な内容だった。変人おじさん(二十四日エントリー参照)は遅れて来て、プレゼンテーションもやはりかなり短かった。出来はクラスで最低だったかもしれない。

各発表の後には皆、プレゼンターに質問をすること、と言っておいたのだが、あまり期待はしていなかった。きっと私がいくつか質問しないと誰も聞かないかも、と思っていたのが意外や意外、殆ど全員が積極的に質問していた。これには驚いた。文法的には間違いもあったが、聞かれた方も大抵理解して答えていたので見直した。

というわけで、従来の筆記、読解、聴解、会話テストをとりやめてこういう形式にした甲斐はあったと思った。二年間の勉強の締めくくりとしては適切だったように思う。皆さん、お疲れさまでした。

教職に対する誤解

豪州では一、二年に一度は教師のストライキがあり、多くの先生達が授業をせずデモに参加する。ここで国民の賛否両論が聞かれるのだが、どちらかというと批判のほうがメディアに取り上げられる。「共働きなのにストなんかされたら子供を預ける所もなく大迷惑!」「先生なんてあんなに長い休暇を貰ってて文句なんか言う権利ない」等々。しかしここには「先生=小学校かハイスクールの先生」「先生=フルタイムで働いている」「休暇=有給休暇」というイメージが出来上がっている。私のように成人相手で、カジュアルで休暇手当がないような教師は想定の枠にも入れて貰えないようだ。が、実際多くの学校でカジュアルの比率は約70%にまでなってきている。そうすると私のように不安定な生活をしている教師のほうが多いということになる。

以前、マーケティングか何かのプロとして働いていた人が初めて先生として私がいた学校で働くことになった時、「前は先生の長期休暇をとんでもない贅沢のように思ってたけど、今自分が教師になってみるとそれがどれだけ必要かが本当によくわかるわ。」と言っていた。(ほ〜れ、ごらん)(笑)

一日に二、三時間教えると言うと人は「いいわね〜、そんなに暇な時間があって〜」という目で見る。が、今日私はずっと例のワークブックを来年に向けて改善する作業をしている。これは数日かかるはずだ。一昨日は生徒に「日本で英語を教えるプログラムに申し込みたいんです。推薦状お願いします。月曜までに・・。」と言われ、数時間それと格闘していた。(英語の推薦状だから余計大変。)一日があっという間だ。しかもそれがすべて無給・・。世の中の皆様に理解して頂きたいものである。

アジアの子供達

昨日の新聞記事によると、シドニーでの有名なハイスクールの生徒は、移民の子供、それもアジア出身、が三分の二を占めているという。有名校の中でもトップである某高校では両親もしくは自分が英語以外の言葉を話すという生徒がなんと92.3%。その中でも多いのはやはり中国語だということだ。

彼らの成功には親の献身が理由として挙げられている。難民としてオーストラリアに来た両親が窓ふきの仕事をしながら子供を学校にやっているという話もある。そんな親の苦労を見ながら子供達はどうしてもいい成績をとり、医者や弁護士にならなくては、と猛勉強、そしてビーチなどで適当に遊んでいたオーストラリア人を抜いて「サクセス・ストーリー」を実現するのだそうだ。

私も家庭教師や塾の仕事を何度かしたが、やはり生徒は圧倒的にアジア人が多かった。しかしそれは私にとっては日本で見て来たものの再現でしかなかった。子供の教育がすべてのママ達、目先の試験しか見えない子供達・・。私はそれがどんな社会を作りあげていくのかを既に知っている。その点、大事なテストを控えていてもパーティーに出かけるオーストラリア人生徒や、「まあしょうがないわね」と許す親が私には新鮮だった。いつ、どんな時でも遊びの心を忘れない。

塾や家庭教師の仕事に専念したら、けっこういい収入にもなるはずだ。が、なんだかその気になれないのは、オーストラリアに日本の二の舞を演じて欲しくないからかもしれない。



You Only Live Once

オーストラリアというとのんびりのどかな生活、オーストラリア人というとこれまたのほほ〜んとした人達というイメージがあるかもしれない。が、少なくとも都市部ではどこの都会にも負けないほどのストレスに満ちた暮らしをしている人達がかなりいる。今まで一緒に働いたオーストラリア人の上司達も、日本人の私が尊敬するほどの仕事量をこなしていた。が、もう一つ感心したのは頭の切り替えというか、遊びを忘れない精神である。

数年前こちらに来て働いていた日本人の友達が、沢山届いているEメールを読まずに退社していく豪州人を見て驚いていた。「自分なら気になって仕方ないだろうなあ。」と彼は言っていたが、私もやはり帰宅後も仕事のことを考えたりするタイプである。その点オーストラリア人は頭の切り替えが上手で、休日となったら徹底的に自分の好きなことに集中してストレスを発散するようだ。エクゼクティブでも趣味は「芝居をやること」とか、聞いてビックリする意外な趣味を持っていることも多い。日本人のように疲れて家でゴロゴロしてることはあまりないようだ。そんな所は見ていて羨ましく、見習いたいとも思う。楽しむための人生ではないか。

カリキュラムの罪

コースの最後に、ティーチングや教室や事務関係の事でコメントがあったら教えて下さい、というアンケートが配られる。ある学生のコメント。「教科書がわりに使ったワークブックはよくなかった。一回休むともう全然わからなくなる。」これを読んで心底がっくりきてしまった。このワークブック作りに私は一体何時間費やしたことだろう。色々なテキストのあちこちからページを借りてきたり、又は自分で作ったページを入れたり・・。私だって本当は本物のテキストを使いたい。しかし、この学校にはこの学校のカリキュラムがあり、それに従わなくてはいけないことになっているのだ。学校が勝手に作ったカリキュラムと市販の教科書の内容がぴったり合うということはあり得ない。それで仕方なく手作りしているのがこのワークブックだ。
 
   しかし豪州での日本語ブームは日本経済が絶好調の頃突然訪れたので、どこのカリキュラムを見てもなんだか慌てて適当に作り上げたようなものが多い。カリキュラムというものは、一度作ってしまうと先生達皆がそれに従って教案を練り教材を作るので、それが出来上がってから途中でやはりこの部分はよくないから変えよう、と言っても誰もいい顔をしない。(最初にカリキュラムを作った人は勿論のこと・・)

  結局「なんでここでこんなトピック導入しなきゃなんないの?」とか「どうして○○のトピックは抜けてるの?」とか各先生が不満を持ったまま教えているようだ。生徒は生徒で、ワークブックでは語彙リストがついていない、とか練習用のCDがあればいいのにとか文句を言ってきたりする。

  噂に聞いたところ、先生によっては市販のテキストを使って単に最初から最後までそのまま順番にカバーし、学校のカリキュラムは完全に無視しているのだそうだ。本当にカリキュラム内容が教えられているかというチェックは、行う、と言いつつ学校側は何もしていないようである。私もそうしてしまおうかな、と心が揺らぐ。が、こんなに苦労して作ったワークブックに未練がないとも言えない。

  
  

変人学生

今学期から入って来たあるおじさん。(五十歳だと自分で言っていた。)なんだか不思議な人でちょっと手こずっている。普通このような本物の大人だと、大人としての責任感があり、社会人としてのコミュニケーション力というものもあるはずなのだが、彼はどうも掴み所がない。まず、よく渡したプリントを忘れて来る。プリントといっても一枚ではなく、2週間、4セッションで使う分20ページくらいをまとめて渡してあるのだが、それを忘れてくる。しかも連続で。(前回で3回くらいずっと忘れて来ている。)そしてこっちが気づくまで黙〜って座っている。普通の大人なら「先生、すみません。今日うっかりコピーを忘れてしまったので、お手数おかけしますが、今日の分だけもう一度頂けませんか。」とか、隣の人と一緒に見るとかするはずなのだが・・。授業中のアクティビティーの時も、パートナーに全部喋らせて、自分は何もしていない。よくにこりともしないでこっちをじーっと見ている。しかし聞いてみるとちゃんとビジネスもしていた人のようだし、海外にもあちこち行っている。外国語も色々と習った経験はあるのだそうだ。彼はちょっと健康の問題があるようなのは知っている。よくふら〜っと教室を出て行き、なっかなか戻ってこず、やっと帰って来たかと思うと「調子が悪いので帰ります。」といって早退していくことが多い。もっと若い学生ならば、少しは説教もできるのだが、こんな大の男が相手だとどうしていいものやら見当がつかない。近くに寄るとタバコかお酒か又は薬か何かの強い匂いがする。あ〜困った。長年教えているがこんなタイプは初めてだ。今日、例のプレゼンテーションの原稿を見せて貰ったが、なんだかよくわからない内容だった。プレゼンテーションはいよいよ来週。彼のはどんなものになるのやら・・(深いため息)

甘辛談義

またまたテストの採点中。前期に落第点だったのに今回は殆ど満点に近いような結果の生徒もいる。こういうのは非常に嬉しく、拍手を送りたくなる。が、逆にものすごく努力していたのに結果が芳しくない生徒には心から同情してしまう。最初バツだったのをなんとか三角におまけして、それでもやっぱり合格点に満たなかったりして・・。がっかりするだろうなあ・・。
   
  ある先生は、学期の最初のほうの宿題などは辛目に採点するべきだと主張する。そうしないと日本語を甘くみて努力しなくなるからだと言う。それから段々点が上がっていくようにした方が励みになる、という意見だ。この言い分は確かにわかるのだが、しかし逆もあり得るのではなかろうか。あまり自信のない学生が思わずいい点を貰ったら、あれ?自分でも結構できるのでは?と努力し始める・・そういったパターンもあるはずだ。どちらにせよ、それは各生徒の性格を見抜いた上で使い分けなくてはならないので、クラス全体に一つのポリシーを実行するのは無理があるかもしれない。

  この(今テスト採点をしている)学校では落第点でも上のコースにいくことが許される。それは私はいいことだと思っている。一学期でダメだったのに二学期で優等生になれた人がいるのだから、一年目で落ちても二年目に花を咲かしてくれる生徒も必ずいるはずだと信じている。

反省・・・

今日のクラスはなんだかとってもうまくいかなかった。でも考えてみたらそれも仕方ない。完全に準備不足のまま行ってしまったからだ。毎年この時期になると一年の疲れがどっと出て来る感じで、だらけてくる。もうちょっとで終わる、という油断もある。今日一日、家事とプライベートレッスンがあったにせよ、少しは準備の時間がとれたはずなのに、結局何にもしないで家を出てしまった。ファイルの整理は教室に着いてからしよう、と思っていたのに、到着するなり早く来ていた学生に捕まってしまった。しかも今日持って行くつもりだった重要なプリントを忘れて来たことに気づき冷や汗。そういう状態でいると学生はすぐに見抜くのか、あっちも全然のってこない。しらーっとしている。何を言っても大した反応がない。つくづく嫌になった。しかしすべて自業自得。なんとか次回は気合いを入れて今日の罪滅ぼしをしよう・・・。

多文化クラスを利用する

一昨日のエントリーにちょっと関係のあることだが、豪州のような多文化社会でも、必ずしも皆がお互いの文化をよく知っているという訳ではないと思う。そこで、日本語のクラスを日本だけでなく、他の国の文化をも知る場に教師が仕向けるというのはどうだろう。「日本では、○○はしなくてはいけないことですが、××はしてはいけません。キムさん、韓国ではどうですか。へ〜え、違うんですねえ。ウォンさん、香港では?あ〜そうですか。ジョンさん、オーストラリアではどうですか。」等々。勿論こんなのをスピーキングのタスクにしてもいいだろうし、各国からの留学生にオーストラリアの印象などを聞いてみるのも面白い。日本語クラスは何も日本語だけを身につける場でなくてもいいと思う。私もこちらの大学で語学に関係ない科目も含めて色々ととった。それらの内容はもう殆ど忘れてしまったが、大学で頑張ったな、とか、最初は絶対出来ないと思ってたことをやり遂げたな、といった知識以外に得たものは人生の貴重な財産としてそのまま残っている。だから、日本語のクラスで異文化というものについて発見したり理解したりできたなら、それはそれで大きな収穫に違いない。そういう意味で同じクラスに多国籍が混在するのは幸運だと思っている。

カルチャーショックの心理学

学者さんたちによるとカルチャーショックには4つまたは5つの段階があるのだそうだ。ネーミングは色々とあるようだが、大体以下のようなもの。

第一段階 Honeymoon又はTourist
例:わあ、オーストラリアって空が青〜い!海の水、透き通ってる!道に迷ってたらすぐに助けてくれてオーストラリア人って親切〜! 果物も肉も安〜い!コアラ、かわい〜!

第二段階 Emptiness 又は Rejection
例:ランチ買うのに英語わからなくて店員に馬鹿にされた、アパートをオーストラリア人とシェアしたら、散らかし放題で家賃も払ってくれず困った、日本食食べたいけど町から離れてると買えない、英語が習いたくて来たのに日本語環境のバイトしか見つからない、バイト先の日本人とばかり付き合っていて何でここまで来たのかわからない

第三段階 Conformist
例:やっと日本人があまりいない英語学校を見つけて色々な国籍の友達ができてきた、知り合ったオーストラリア人を通してもっといいアパートに引っ越し今度はシェアの相手ともうまくいっている、オーストラリアの音楽や映画に興味が出て来た、好きなテレビ番組もある

第四段階 Assimilation
例:昼は日本の会社で働いているけれど週末はオーストラリア人の友達とバーベキューパーティーしたり一緒にサーフィンに行ったりする、オーストラリアのスポーツやイベントが好きでよく参加する、こちらのライフスタイルのほうが日本よりいいと思う

以上、1、2、3、4の順番で数ヶ月又は数年ずつ起こるとは限らず、全段階を経験する人としない人がおり、又、ある日は第一段階なのに翌日は第二段階の症状、ということもあり得るのだそうだ。そして、孤独感、不眠、イライラ、怒り、恨み、自信喪失、新文化への偏見、ホームシック、などの症状が出るかもしれないとも言われている。

  仕事柄、先週着きました、というような若い留学生に教えることも多いが、誰でも異国で生活する際はこんなことを念頭に置き、自分を客観的に見つめてみることが必要だろう。

ps
私は1、2、3、4という順序そのまま経験したタイプだと思う。勿論今でも日によっては2のムカムカ段階に戻ってしまうころもある(笑)



Almost Aussie

一昨年だったか、Sarah Turnbull という人が書いた"Almost French" というノンフィクションが長い間ベストセラーになっていた。大学時代フランス語をとって落ちた、という経歴を持つオーストラリア人の彼女がフランス人と結ばれパリに住むことになる。パリでの生活はカルチャーショックの連続だ。苦い経験を重ねた末、ついに彼女はパリジェンヌに見間違えられるまで「フランス人」らしくなる。

   彼女の異文化体験は、自分がこちらに来てからの体験と重なり、国は異なれどそうそう!と頷かされることも多かった。例えば、フランス語が下手な為、他の人が最近読んだ本などについての知的な会話をしているのに彼女は入っていけない。口を開けば幼児レベルのことしか言えず、人に知能指数を疑われそうな気がしてしまう。そんな時の孤独感・・・。

   確かに面白く書けている本だが、しかしなぜここまでの人気が出たのだろう。そう考えて私にふとある推論が浮かんだ。もしかすると、多文化国家でありながら、平均的なオーストラリア人にとって「移民の視点」を知ったのはこれが初めてであり、それが新鮮だったのではなかろうか。オーストラリアには多くの国籍の人間が共存しているが、それは必ずしもお互いを知っているということではない。お隣は中国人でお向かいはギリシャ人かもしれないけれど、だからといって移民の彼らがオーストラリアでどんな苦労をしているか、どんな心境でいるのかまではよっぽど付き合いが深くなくてはわからないはずだ。

   それを移民となった同胞の口から聞いて、オーストラリア人は心を動かされたのかもしれない。私の勝手な推測だが、なぜかそんな気がしてならない。

在日外国人の視点

新しくはないが、香川県に住む外国人の視点を紹介した面白い記事を見つけた。
記事を読む

特に郵便局でなぜ封筒を売らないのか、という外国人の苦情に対する回答の解釈。「近くのスーパーやコンビニで簡単に買えるので、郵便局が販売する必要性は今のところないと思われます。」という郵便局の回答を、日本人なら「ああ、これは売る気ないな」と理解するであろうが、外国人なら「今のところ・・じゃあ将来は売るの?」と言い兼ねない、ということだ。確かにこういった、「ノー」の返事を和らげる目的でくっつけてある「言葉のクッション」は、外国人に誤解されやすい。この記事に出て来る外国人も「丁寧なんだけど、的を外した日本らしい答え」と評している。

  日本に住む外国人の意見に耳を傾けるのは勉強になる。次の英語サイトでは「日本の店などで外国人という理由で断られたことがあるか」というアンケートを行った結果が出ていた。

アンケート結果

ページ上に結果のグラフが出ている。断られたことのある人(オーストラリア人)が「でもこういう扱いを受けるのは、自国で何の差別も受けない自分のような白人の男にはいい経験だ」というコメントをしている。
    

ないものねだり

毎日バタバタとクラスからクラスへ、学校から学校へ、と駆け巡っていると、家は紙だらけ、ファイルの中はぐっちゃぐちゃ、なんとか翌日の準備をして飛び出していくのが精一杯だったりする。食べていく為には、複数の職場で複数のクラスをこなさなくてはならないのが現実なのだが、こんな時間不足の状態は理想の教師像とはかけ離れているように思う。もっと時間にも気持ちにも余裕がなくては、生徒を助けようという心の余裕もなくなってしまう。授業の後には、今日の内容を省みて、次回のために教材を改善しておくくらいの時間を持ちたく思う。が、ここでもう一つ、問題が出て来る。その、「次回」は果たしてあるのか? 予算削減という言葉はどこの職場でも毎年聞こえるし、非常勤教師にクラスがあるかないかは申し込んで来る生徒の数にかかっているので、全く予想はつかない。あるかないかわからぬクラスの為に多くの時間を費やして教材を改善するべきかどうか。ここもまた辛いところだ。あるミーティングに出た時、例年通り「クラスがあるという保証はできない」と言われ、同僚の一人が「人権無視だよね」とささやいた。「人権無視」!その時は強い言葉に思えたのだが、考えてみると確かにそうだ。教育に携わる者に何の約束も出来ない社会はやはりどこか間違っているのではないかと思う。

両極端

昨日あんな文句を言ったからか、今日は冬のような寒さが戻ってきてしまった(笑)。さて、今年某学校で教えたクラスは、何故か静かなクラスで一人も盛り上げ役がいない。英語で言うところの"Class Clown"が一人いてくれると、こっちも「つっこみ」役になれて笑いの多いクラスに出来るのだが、誰も面白いことを言わないとクラスはしらけがちだ。長年教職についていると、悲しいが「毎年言うジョーク」というのがいくつかある。しかし、今年のクラスはそれを言ってもし〜ん。いつもは爆笑になるというのに。観客によってウケが違うコメディアンの苦労がわかる気がする。
   
   一方、他の学校のとあるクラスは八人中半分がClass Clownなので、みんなでつっこみあっててもう収拾がつかなくなることがある。私はひたすら、「ほらほら、もういい加減にして。」「さあ、勉強、勉強!」「え〜っと、一体今何やってたんだっけ?」と授業を進行させるだけで一苦労だ。これも又教案が全く消化できなくて困る。やはり道化役はひとクラスに一人か二人が適度なのだが、それは入学選考で決められるはずもなく、常に、開けてびっくり玉手箱、なのだ。

悩ましい夏

夏になると特に目立つのがこちらの女生徒の薄着。薄着っていうか、つまり胸のあたりがぐーっと開いているTシャツを平気で着て来る。それも、そんなことしなくても胸が目立つ子が、わざと誇らしげにしているような雰囲気。女の私でもなんだか目のやり場がなくなるのだから、男性の先生はもっと困るのではなかろうか。(それとも嬉しい??)胸だけではない。最近流行ってるジーンズ、ちょっとかがむとお尻の上半分が見えてしまう。先日も、やや太めの女生徒が、コンピューターの前で鞄の中をごそごそやっていて、私は彼女のお尻を目撃してしまった。男子生徒の視線がいかぬうちにお願いだから早くイスに座って、と一人でハラハラしてしまった。
  
   日本では身だしなみのTPOがうるさいが、こちらでは学校だから、とか、目上の人に会うから、といったことにあまり気を使わないようだ。学校だけでなく職場でもこれは同じなので、特に女性で日本関係のビジネスをしている人にはそういったことも教えておいたほうがよさそうだ。

"The Castle" に学ぶ

"The Castle" はかなりヒットしたオーストラリア映画。私は数年前に見たのだが、一昨日又テレビでやっていたようだ。もう一度見るつもりでいて忘れてしまった。この映画は労働者階級の一家が、空港に隣接する我が家、つまり彼らの「城」を買収されまいと戦う話で、コメディーでもある。この映画で何より印象深いのはこの一家の父親である。彼はとにかく褒め上手。家族が何をしても褒めて褒めて褒めまくる。奥さんがごく普通の料理をしていても「お〜!うまいっ!これなんていう料理〜?」と大げさに褒める。又、奥さんは趣味で陶芸もやるのだが、これがまあひどい。それなのにご主人はまためちゃくちゃに褒めまくる。勿論これだから、家族はみないい気分になってニコニコしている。それなりに悩みや問題も抱えているのだが、このお父さんのホメ癖で物語には常に温かいものが漂っている。
  
  こんな人は現実にあまりいないのではないだろうか。こんなにいつも褒めてもらえる家族というのも稀だろう。だからこそこの映画を見て皆笑ったのだし、同時にちょっと感動もしたのだと思う。さて、昨日のスピーキングテストで、いつも非常に出来ないTさんが、あれっ?と思うほど発音がよくなっていた。前は何を言っているのか全くわからなかったのだが、今日はちゃんと理解できた。そこで私もCastleを思い出して褒めまくってみた。「Tさん、すご〜い。上手になりましたねえ。随分勉強したんじゃないですか〜?」Tさんは嬉しそうに微笑み、「はい、たくさん勉強しました。」と、満足げな表情で帰っていった。

携帯の常識

日本のサービスの良さに驚いて帰って来る生徒が多いが、もう一つよく聞くのは「日本では、電車の中で携帯を使う人が全くいない!なんて礼儀正しいんだ!」というコメント。ここで残念ながら、種明かしをしなくてはいけない。「あれはね〜、車内放送で携帯は使わないように、って言ってるからなんですよ。」生徒はな〜んだ、そうだったんだあ、と納得する。

   こちらではそのような放送がない為、電車の中でも皆、携帯を使っている。携帯の便利さは認める。だから、「今、○○駅。あと、5分で着くから、迎えに来てね。じゃあね。」とこういった会話はいっこうにかまわない。しかし、大した用事でもないのに暇つぶしにかけて、延々と話す人をよく見かける。それも車両中に響き渡るような大声で。本や新聞を読んだり、ちょっとの「空白の時間」をぼんやり過ごしたい時にこれほど嫌なものはない。それは私だけではなかったようで、一度、二十分経ってもまだ話し続けている女性に、私の隣に座っていた男性が文句を言ってから降りていった。私も同じ駅で降りたのだが、なんだか嬉しくて、その人と握手のひとつもしたくなってしまった。

  私は例え、しろ、と言われても自分と誰かの会話を数十人の他人の前で大披露することはできないと思う。それは私の「常識」に反する。しかしそれをいっこうに気にしない人がこの世の中にはごまんといる。授業中に電話を鳴らす人、とる人、とってそのまま教室を出ずに話をする人、鳴っているのに何もしない人、などその神経は私には全く理解できない。普段はとてもいい人だと思っていたのに、携帯の「非常識」でがっくりさせられることもある。そして、この、私と全く違う価値観をもった人たちはどうやら国籍や年代にはあんまり関係なく存在するようだ。
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逆カルチャーショック

BさんとSさんはカップルでクラスに来ている。二人とももの凄く気さくで楽しい。Bさんは確か庭のデザインか何かをしていて、Sさんは女医さんだ。コースがまだ終わらぬうちに二人は日本に旅行してきた。帰ってくるなり広島のモミジ饅頭をおみやげに差し出し、Sさん、私にぐっと顔を近づけ、じーっと目を見つめて言う。"Don't you miss Japan??? (日本が恋しくならないのぉ?)” ・・・別にィ、と答えると、信じられない、というふうに首を振り、「日本のサービス・・素晴らしいわ。フレンドリーで、丁寧で・・ところがこっちに戻ってきたらどう?店員はにこりともしやしない。仕事なんてどうでもいいって感じ。どうして日本から来てこれに耐えられるの?」そりゃあ今でも店員の態度とかにはむっとすることもある。でもそれは豪州生活のほんの一部のことであり、全体的に考えて私は豪州に向いた性格だと思う。(日本の集団主義が苦手なことは先日も書いた。)ここに来たのも何か運命的なものに思えたりするのだ。しかし日本から戻って来て逆カルチャーショックを受けるのはSさん達に限らない。ホリデーだけでこうだから、日本に数年住んだ人達はなかなか元の感覚に戻れないこともあるようだ。が、それはそれで受け入れなくてはいけないことなのではないか。色々な国を見て、比べて、自分や母国を見つめて、考え方が丸くなり、皆成長していくのではなかろうか。

昨夜のハプニング

あるクラスで。ここ数年、期末試験と言えば作文、読解問題、先生との会話、テープでの聴解問題がお決まりコースだった。しかし生徒によってはもっと創造力を試すようなテストのほうが力を発揮する人がいる、というのも経験から知っていた。そこで、今年からプレゼンテーションをやってみようと思い、それは九月に学期が始まってすぐ発表した。学生の反応は意外にネガティブだった。「筆記のほうがいい」「人前で話すなんて英語でもできない」等々。昨夜はその詳細を発表した。プレゼの下書きをwritingとして提出すること。各プレゼンテーションの後にはクラスメートから質問されるからそのつもりで、と話していると突然、一人の女生徒がなにやら聞き取れないことを言ったかと思うと半べそ顔でドアをバッターンと閉めて出ていってしまった。え?何なの?どうしたの?今なんて言ってたの?生徒達は「他の科目でも沢山宿題が出てるからできないとかなんとか言ってたみたい。」・・飛び出していった生徒は香港出身の、ティーンエイジャーで通るような容姿の女性だが、もう小学校に行っている子供もいる成人だ。なので私は追うこともせず、授業を続けた。しばらくするといつも彼女と仲良くしている19歳のオーストラリア人の男の子が無言で教室から出て行った。彼女を探しに行ったのだろう。数分後、今度は普段特に仲良くしているわけでもない女の子が、やはり教室を出て行った。もう、勝手にしてちょうだい。

十五分もたったころ、三人とも戻ってきた。飛び出していった女性には笑顔が戻っていた。ちょっと恥ずかしそうに、「先生。私今他にもやることが沢山あるんです。山ほど。私にとって英語は外国語だし、日本語はその次の外国語。だからもうとても出来ないって、思っちゃった。先生だって、この気持、わかるでしょ?」うん、わかる、わかる。大丈夫。来週から少しずつプレゼの準備しよう。手伝ってあげるから。心配しないで。彼女は頷いた。一件落着だった。普段はなんとなくバラバラで、まとまらないクラスなのだが、この事件のお陰で隠れた友情も見ることが出来た。

戦争の鎖を切る

イスラエル兵に射殺のパレスチナ少年、臓器提供
2005.11.08
ヨルダン川西岸ナブルス(AP) イスラエル兵に誤って射殺された12歳のパレスチナ少年の父が、息子の臓器提供を決めた。移植を受けた中には、パレスチナ人だけでなくイスラエル人もいた。父親は、これで息子の魂が「全てのイスラエル人の中」で生き続けると話している。 http://www.cnn.co.jp/world/CNN200511080010.html

何年も続く戦争。国と国との憎みあい。どうやったらこの戦争の鎖を切ることが出来るのだろうか。それはこのような、一個人の勇気ある行動から始まるのかもしれない。果たして人間は、愛する人の命を救ってくれた人間を、国籍を理由に憎み続けることが出来るだろうか。人が人の心を揺する時に、鎖はゆるみ始める。

私は一匹狼?

   日本にいる時から集団でかたまるのが嫌いだったが、こちらに来てからもそれは変わらない。何事も一人で勝手気ままにするほうが好きな性格なのだ。教えるのもどちらかというと、チームティーチングより一人でやるほうが気楽だ。人と組むと、「迷惑をかけぬよう今日は絶対ここまで導入しなきゃ〜〜!!」などと生徒を無視した教え方になりがちだし、「お上」からのつめこみ教案をそのままやらなくてはいけない時は、ただのロボットと化してしまう。その点、「まあ、ご自分でお好きなようにやって下さいよ。」なんて言われると俄然はりきって、ああでもない、こうでもないと教材を作っては工夫を惜しまない。
  
   教師というのは結局、他人の作った教材や教え方を強制されたくないものなのだと思う。皆それぞれが、頑なな信念や思い込みを持っている、頑固な人間のかたまりだ。一緒に同じことをしようとすると衝突が多い。それなら無理に同じことをしようと試まなくていいのではなかろうか。大まかな枠だけ決めて、後はご自由に、としたほうが、皆が創造的に、のびのびと教えられるはずだ。先生が自分の一番好きなやり方で教えている時には、その気持ちが生徒に伝わり、学習効果だって高まると思うのだが・・。

  以上、私の理想論。この理想論にも反対する先生が多く出て来るであろうことは百も承知だ。(笑)

男ことば、女ことば

テキストのテープで男の主人公が「○○さんの履いている靴、素敵ですねえ。」と言うのを聞いて生徒達、どっと笑う。「この人、ゲイだね。」そう言う生徒本人が実はゲイなのでクラスは又爆笑だ。このテキストを作った方々はおそらく予想もしなかった反応かもしれないが、他人のドレスセンスにとやかく言うのはゲイっぽい行動であるというのは豪州の一般知識(?)だ。それに輪をかけ「素敵」は "Lovely" などと訳され、これもなんだか女っぽい英語だ。日本語でも英語でも女性しか使わない言葉や男性しか使わない言葉があるのだが、語学教師というと圧倒的に女性が多いので教材には女言葉が使われ過ぎる傾向もあるようだ。 昔プライベートで教えた男性は、なかなかの上級者だったが、文末がどうも女性的なので、今までどこで習ったのか聞いてみると、殆ど日本人の秘書(勿論女性)から教わったということだった。あれは直さないと変な誤解を招きかねない。

   女生徒が「スシを食べました。」というとやはりちょっと乱暴に聞こえるし、男子生徒が「わたしは、ご飯を食べました。」と言うと丁寧すぎる感じだ。男性が友達同士で話しているなら「オレ、メシ食った」のほうが普通かもしれない。しかし、だからといってこれを教えるかというと、そうもいかない気がしてしまう。どこかで「外国人がくだけた表現を使うと(日本人が使った時と比べて)2倍くだけて聞こえるし、丁寧な言葉を使うと2倍丁寧に聞こえる」というのを読んだことがある。これは確かにそうではないだろうか。「え?そんなコトバ知ってるの?」という驚きが台詞を印象づけるので、効果は倍になってしまうのだろう。コトバの性別にジレンマはつきない。

変な日本語グッズ

Engrish.com(http://www.engrish.com/ )というサイト、おそらく皆さん、ご存知であると思うが、ここには間違った英語の看板などの写真が沢山集められており、吹き出すようなものが多い。しかし、オーストラリアでも変な日本語のグッズをけっこうよく見る。最近アジア的なインテリアがすごく流行っているようなのだが、キャンドルやクッションなどによく漢字が書いてあり、それはまあいいのだが、その漢字のへたくそなこと!どう見ても漢字圏生まれでない人が見よう見まねで書いたとしか思えない代物だ。しかし皆そんなことは知らないから「あら、素敵」なんて買っているみたいだ。
   
今日のクラスでは生徒の一人が着て来たTシャツに日本語がびっしり書いてあったので、読んでみるとなんと小学生の日記がそのままプリントされている。「今日はぼんさい町に行った。100年以上の木を見てびっくりした。1万円いじょうもして高かった。・・」などと、最後には3年3組のなんとか君という名前まで出ている。一体誰がどうやってこんなTシャツをデザインしたのだろう。そうそう、数年前には日本語の新聞が一面にプリントされているワンピースを来ている女性を見た。まだインターネットも普及しておらず、日本語に飢えていた私はつい彼女の後をつけて記事を読んでしまった。

アニメと日本語学習

最近はクラスに必ず一人、いや数人のアニメ狂がいる。昔は「アニメ?マンガ?くだらな〜い、しかもいい大人が!」なんてイメージがあったが、ここ数年は日本経済とともに生徒数も落ち込み常に仕事があるかヒヤヒヤしているので、アニメ様々である。(勝手〜!)特に宮崎駿の作品はオーストラリアでも大変高い評価を受けている。先日のエントリーに登場したプライベートの生徒S君に言わせると「例えばディズニーのマンガなんかは本当の子供だまし。追っかけたり、ぶん殴ったり、それで笑わせて終わり。全く意味がない。それに比べると宮崎アニメにはいくつものメッセージがあり、しかもそれに深い意味がある。宮崎に比べたらディズニーなんてお話にならない。」のだそうだ。なるほどねえ。哲学的なものをアニメに求めているのか。
   
どちらにしても子供の時アニメを見て日本や日本語に興味を持ったと言う生徒が多い。そういった形の異文化との接触は罪がない。ただ面白いから好き、で先入観や偏見がない。おいしかったらそれでいい、料理の世界や、歌詞がわからなくても好きになれる音楽の世界と似ている。いまやアニメもその一つ、国境を超えたヨコつながりのカルチャーなのだろう。

色々な色

   米国の「ホワイトハウス」を「白いうち」と訳してしまう生徒がたまにいる。それはちょっとやり過ぎ・・努力は買いますが・・。今日も色関係で二つの出来事があった。まず、「よく料理をしますか」という質問の答えを黒板に書かせたら「青い月です。」と書いた学生がいたのだ。皆一瞬きょとんとしてからすぐに意味がわかり爆笑になった。彼は英語の"Once in a blue moon (滅多に)"を直訳したのだ。出来る学生なので、真面目に答えたわけではなく、ジョークとしてやったみたいだ。

   その後の授業では「赤の他人」という言葉がでてきて、「どうして赤なんですか。」と質問されてしまった。赤の他人ねえ・・。広辞苑には「名詞の上につけて、『まったくの』『すっかり』『あきらかな』の意を表す語」「赤の他人 ー まったくの他人。全然縁のない人。」と書いてある。いつも使っているのに理由を知らない表現というのは数えきれないほどあるものだ。英語でもそれは同じようで、シドニー・モーニング・ヘラルドという新聞には「どうしてこういう言い方をするんですか。」という読者からの質問に他の読者が答えるというコラムがあり、それはなかなか面白い。(今調べようと思ったら捨ててしまったようで手元にない。又今度にしよう。)

   一度授業で「日本では特に信号に関しては緑を青と呼ぶことがある」と話したら、韓国人の生徒が「あ、韓国でも同じです。」と言ったので、びっくりした。韓国と日本では何かと似ていることが多いようだが、ここまで同じとは!

みんな人間だ

外国に住んだり、外国人と付き合う時、「やっぱり日本人と違うなあ」という違和感がある時と「なんだ、やっぱりどこに行っても同じだなあ」という感じる時があると思う。文化や価値観といったものには見えないタテの線とヨコの線があるのではないだろうか。日本のやり方はこう、オーストラリアではこう、という交わることのないタテの線と、「どこでも男はこう」とか「どこの国でも若者はこう」といったヨコの線。それが複雑に絡み合っている気がする。
  
  昨日のオレンジの話は、私がこちらの大学で問題解決学を学んだ時に聞いたたとえ話である。まあ単純過ぎて現実味がないと言われたらそれまでだが、何かもめ事が起きた時、問題解決のカギとして使われるのは人間に共通する「ヨコの糸」であることが多い。諍いが起きる時、それぞれの人間は、プレッシャー、過去の問題、恐怖心、などを抱えており、問題解決学はそれらを客観的に分析し、コミュニケーションを促し解決へと導いていくことを目的としている。ちょっとここでは書ききれない、奥の深い分野だが、言語学や異文化教育にも大いに関係があると思う。

  ともあれ異文化を教える時、私達はなんとなく違いに注目し、相違点を強調しがちだが、同じ部分も必ずある。共通点を教えるということも忘れてはいけないことであろう。



オレンジの話

二人の人間が一個のオレンジをめぐって争っていた。お互いどうしてもそのオレンジがいると言い張り、一歩も譲らない。喧嘩は延々と続いた。が、ある時一人が「どうしてそんなにこのオレンジが必要なんだよっ!?」と尋ねた。もう一人は「ママレードを作るのにその皮が要るんだ」と答えた。「え?じゃ、中身は要らないってわけ?」「そうさ。」ここでこの喧嘩は終わった。二人とも欲しい部分を手に入れることができた。これはコミュニケーションがあったからこそ得られたWin-Win、つまり両者が勝者となった結果である。

   今日、帰り道、ふとなんで自分はこんなに異文化コミュニケーションに興味があるんだろう、と思ったのだが、おそらくそれは日本人と外国人の間にまだ思うようなコミュニケーションがとれていないことを常に感じているからかもしれない。コミュニケーションがあれば、そしてそれがうまくいけば、お互いWin-Winの結果を得ることは可能なはずだ。

Critical Thinking を使ってみよう

10月29日のエントリー「クラスルーム・バトル」で東西の学習法の違いについて触れたが、誤解を招かないようちょっと付け加えたいことがある。このエントリーで書いたように、こちらの大学の小論文には何かと批判や反対意見を述べるといい点を貰える傾向があるように感じたのだが、ここでポイントなのは、必ず批判しろ、ということではなく、与えられた情報を鵜呑みにするな、ということなのだと思う。何か本を読んで、「はいはいそうですか、わかりました」ではなく「ちょっと待てよ。でも本当にそうかな?」と「考えてみる」。これが重要なことなのだ。考えた上で理論的に賛成できるならそれはそれでいいということだ。これはこちらで奨励されるCritical Thinkingというコンセプトにつながるのだが、日本語を教える人達もこれを実践して損はないと思う。何か教材や文法解説などを見て、まずは考えてみること。そうするとけっこう辻褄の合わないものにも頻繁に遭遇する。どんなに有名な大学の大教授が書いたものでもまずは「ホントにそうかな」と考えてみよう。それを怠ると生徒に問いつめられた時に必ずボロが出る。
  
ちょっと話はとぶが、「過労死」のことを生徒に話すと「え〜、そんな無理を強いられてどうしてボスにノーと言えないの?」と不思議がる。それはまあ日本の社会構造からして難しい面もあるに違いないが、同時に被害者たちは「本当にこれでいいのかな」と自分に聞いてみたことがあったのだろうか。そんなことも問題に関係しているような気がする。

本日競馬の為休業

今日はメルボルン・カップという競馬が全国的な催しとしてあり、メルボルンのあるビクトリア州では祭日である。他の州でも皆このレースを見るようなのだが、祭日ではない。(サマータイムも州ごとに違うが祭日も違うのだ。)が、先ほど買物に行ったところ「本日競馬の為休業」と勝手に祭日にしている店もあった。数年前、メルボルン・カップの日の朝、授業が終わり、両手いっぱいに教材を抱えてやっと教員室まで戻ってくるとなんと鍵がかかっていて入れない。どうしたんだろう?まだ昼間なのに・・と思っていると、なんとスタッフが他の部屋に集まり競馬の中継を見ていたのだ。全くあきれてしまった。
  豪州はやはりスポーツ関係の優先度が高い。ニュースでもトップニュースがスポーツだったりする。先日ロッテの優勝がNHKニュースでどのように扱われるか見ていたのだが、最初にちょっと報道され、詳しくは後で、と政治関係の話に切り替わった。が、オーストラリアではどこどこのチームが優勝、となるとそれがトップニュースで最初っから詳細が伝えられる。イラクも鳥インフルエンザも後回しだ。メディアは国民性をよく反映するものだと思う。そしてまた祭日も文化のバロメーターかもしれない。