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平(たいら)和(かず)

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ホームステイ失敗談その2

いまだに作文採点中。今日見たのにもホームステイした時の失敗談が書いてあったので紹介しよう。彼女はホストマザーに「そろそろ出かけます」と言われたのだが「そろそろ」を知らなかったので辞書を見てみた。そうすると"Soon"と書いてあったので、そうかと思い、まあ「あと5分」くらいに解釈していたらしい。そしてそう言われるたびに髪をとかしにいったり、鞄に物を詰めたりして、5分以内には出かけられるようにしていた。が、そのうち他の人に「ホストマザーがあなたのこといつもノロノロしてるって言ってるわよ」と言われガーンと来たそうだ。こういう「時間」に関する言葉の解釈は本当に厄介だと思う。私もこちらに着いたばかりの頃、あるおじさんが"See you later"と言ったのを聞いて、「See you later? あ、『また後で』ってことか。やったあ、初めて文が全部わかった〜!!」と大喜びした。そして、そのおじさんはきっとまた午後にでも来るんだと思っていた。が、待てど暮らせど、彼はもう二度と顔を見せなかった。このLater さえついていなければ、私も「じゃあまた」くらいに解釈し、そんなに再会を期待しなかったと思うのだが・・。

ああ、サマータイム!

夏時間が始まった。ゆうべ寝る前に一時間時計を進めたので、採点で忙しいというのに一時間損してしまった。(この一時間は冬時間に戻る三月末まで返して貰えない!)日本との時差は二時間となる。しかしこれはシドニーの話で、今シドニーが午前11時半として、パースはまだ8時半、ブリスベンは10時半で、ダーウィンは10時、と非常にややこしい。これが同じ国内だなんて!ビジネスにも影響が出てきそうに思うのだが。
   
驚くのはこの夏時間への変更は、あまり大々的に報道されないということだ。新聞を見ても片隅にちょこっと載っているだけ。テレビでもニュースキャスターが最初に言ってくれればラッキーな方だ。毎年恒例のことだから、というのが理由なのかもしれないが、オーストラリアに来たばかりの人は気づかぬままのことが多い。実際日本から来た友達はこちらに数ヶ月住んでいたのだが私が教えるまで知らなかった。変更は常に日曜からなのだが、日曜日も一日中気づかぬままだと月曜に大遅刻する可能性ありだ。

クラスルーム・バトル

   日本に行って英語を教えるネイティブの先生や、オーストラリアでアジア人留学生に教える先生は殆ど皆がカルチャーショックを体験するようだ。まず、西洋諸国ではスタンダードとも言える「討論」が成立しない。トピックを与えても誰も何も言おうとしない。質問は?と促しても誰も手をあげない。ゲームやロールプレイをすると「遊びに来たのではない」といった苦情が来たりする。
  
  学習法に関しては東西がまっ二つに分かれるようだ。先生の言うことはなんでも正しく、それを書きとめ、暗記し、その暗記力が試されるような試験に臨む東洋組。それに対して、先生の言うことでさえ疑ってかかり、討論し、意見交換し、小論文などで成果を見せる西洋組。私はこちらの大学で勉強していた時、いい点を取るある秘訣を学んだ。それは、小論文を書く時に参考文献に書いてあることを徹底的にこきおろすというテクニック(?)だ。とにかくアラを探してそれを批判すると、大抵いい点が貰えた。こちらの大学講師はそういう手応えのあるものを好む傾向があるようだ。私が初めて大学で書いた小論文は、今振り返ると読んだものの内容をコンパクトにまとめてそれに感想を付けたようなものだった。提出前にそれを人にチェックして貰った時、「これは論文ではない。」と言われてしまった。

   このような違いがあるので先生は勿論、留学生も同じく教室内でのカルチャーショックを受ける。現在豪州での語学教育はゲームやロールプレイを重視するコミュニカティブ・アプローチが主流なので、アジア系の、こちらに来て間もない学生達には少々注意を払ったほうがいいように思う。

カルチャーショックの予防注射

只今作文採点中。学生の日本での体験を読むのはなかなか面白いのだが、「お風呂の中で石けんを使っちゃってホストマザーに驚かれた」なんていうのがいまだにあるのは驚いてしまう。外国人をホームステイさせる場合、この程度の予備知識も与えずに送り、迎えてしまうのだろうか。他にも彼らは色々とホストファミリーに迷惑をかけていた(苦笑)ようだが、日本人は直接言わずに第三者(例:ホームステイを手配した会社)を通して苦情を言う。これ自体英語圏の人間にはショックである。なんで正々堂々と当人が言ってこないで裏でコソコソやるんだっ!と怒り爆発になる人もいる。日本人は「和」を保つためにそうするのだが、外国人相手だと逆効果になりかねない。これは直塚玲子氏の「欧米人が沈黙するとき」にも書かれていることであり、特に日本人はメッセージで一番肝心な部分を言わない。「ちょっとピアノの音が・・・」でストップして「うるさいんですけど、静かにして貰えませんか」とまで言うことは極力避ける。しかしこの「ヒント」は外国人には必ずしも分かってもらえない。そんな遠回しな表現に慣れていないからだ。日本人の以心伝心を期待しても無理がある。だからホームステイ等で起きるのがわかっているようなトラブルは予めオリエンテーションでも開いて「予防注射」をしておけばいいのに、と思ってしまう。

沈黙は逃される金なり

たまに日本人の留学生がクラスを見に来たりするのだが、生徒に何か質問させると、英語・日本語にかかわらず、答えてくれるまでちょっと時間がかかることが多い。日本や日本文化についての質問だと、普段考えなかったようなことが多いので彼らは「う〜ん・・」「えーっとぉ・・」と唸っているし、英語ならば勿論、頭の中で単語やら文法やらがパニック状態で飛びかっているのがわかる。しかしそんな時、生徒達はなんだか待つのがじれったさそうにモジモジしている。英語の会話では「間」というものがないので、このような会話の空白にはどうやって対処していいのかわからないようだ。
  
そういえば一度クロスカルチュラル・トレーニングなるもので、豪州人と共に、こちらに赴任したばかりの若い日本人男性に一日集中講座をしたことがあるのだが、なんと異文化のエキスパートであるはずのこの豪州男性も、沈黙への応対が全くわかっていなかった。彼が英語でその日本人男性に「これこれについてはどう思いますか。」などと質問する。日本人の彼はこちらに来たばかりにしてはなかなかの英語力だったが、やはりしばらくは思考の時間を要する。それなのに豪州男性はしびれを切らして自分の質問に自分で答えてしまう。それが何度も続いたので私は横で見ていて嫌になってしまった。待ちきれないばかりに、彼は「金」を逃している。いつまでたっても日本人の意見は全く聞けないままだ。会話の途切れに対し英語を話す人間は非常にuncomfortable である。日本人の沈黙に慣れるにはかなりの練習が必要であろう。   

新世紀の教材が欲しい!

日本語教材のピークはやはり日本経済のピークと一致していたのか、最近はあまり新しい教材が出ていないような気がしてしまう。私が使っているものの殆どが十年以上前のもののようだ。十年一昔。1995年といったら「インターネットって何?え?この情報一体どこから来てるわけ?」なんて疑問を持った人もいたような頃だ。そして皆「電話」で連絡をとりあっていた。注:これはただの「電話」で「携帯」ではない。こんなわけでどうも最近の生徒と昔の教材にはギャップがありすぎる。まず、「もしもし、わたくし○○と申しますが、△△さん、いらっしゃいますか。」と言った台詞が若い学生にはピンと来ない。皆ケータイで直通だからだ。「友達に手紙を書きますか。」なんて質問文も化石または恐竜と言える。手紙なんてもう誰も書きやしない。「どこどこで◇◇のコンサートがあるそうです。チケットの値段と時間を調べて頂けませんか。」なんていうのもいまやおかしい。ネットで調べたらいいじゃん、ということになってしまう。教えていてなんともやりにくい。もっと「今どきの」教材の出現を切に望む。

ありがとうと言おう

週何時間もの授業時間外労働、数ヶ月に及ぶ無給休暇、冷凍庫又はオーブンのような教室・・。日本語教師、特に非常勤教師は労働条件がよくないので、文句を言い出したらきりがない。生徒にもつい「教えてやってる」気分になりがちだ。しかし彼らだって楽しいことばかりではないと思う。週に2回、一日仕事をしてから3時間も教室に来る生徒だっている。本当なら家でビールの一杯も飲んでテレビでも見たいのではないだろうか。ご主人や奥さんにだっていい顔をされてないかもしれない。一昨年だったか、家から車で2時間かけて来ていた学生もいた。3時間のクラスと往復で合計7時間だ。
  
   学期も半ばになるとそんな皆の努力にサンキューの一言を言うようにしている。皆一瞬驚くが、その後目が輝いて大きな笑顔になる。皆勤賞の生徒にはコースの最後で名前を挙げて「よく頑張ったね」と褒める。生徒への感謝の気持ちを忘れないようにしたいと思う。
   

悪夢の数学

中学と言えば数学の授業が一番嫌だった。なぜかというと、先生が過激な教え方をしていたからだ。生徒を当てる。間違った答えを言う。すると、その生徒の横一列と縦一列に座っていた生徒が全員立たされる。そして彼らも正解が言えるまで座らせて貰えない。中学生といえばお年頃だ。私だってクラスに好きな男の子がいた。しかし、数学大苦手の私はしょっちゅうタテヨコの皆様に迷惑をかけていた。その中には勿論憧れの彼も入っていたのだ。その先生はさらにテストの結果を壁に貼り出し公表するという方針だった。数学のある日は暗い気持ちで登校した。私はお陰で一生数学嫌いになってしまった。

  今大人になって振り返るとあの先生は必ずしも悪い先生じゃなかったかも、と思う。おそらくなかなかやる気を見せないクラスになんとか喝を入れようと考えた挙句の苦肉の策だったような気がする。しかしやはり恐怖と恥辱を原動力としたこの方法は失敗に終わったと思う。教育にはネガティブな心理は利用できないのかもしれない。

もと劣等生の利点

  私は中、高校の頃はお世辞にも優等生とは言えない生徒であった。ちょっと不良っぽいことに憧れ、マネをし、小学校の時と比べると成績もがた落ちだった。特に理数系の科目からはどんどん落ちこぼれて、化学の授業など「外国語」としか思えなかった。しかしこの暗い過去は今の仕事にはけっこう役立っている。それは、できない学生の視点がわかるからだ。
  
  出来ない学生に文法説明が細かい字でびっしり書かれたようなものを「家で読んで来なさい」なんて言っても読むわけがない。「それは学生の義務ですから」等と言って片付けようとする先生もいるが、現実から逃避してはいけない。一目見て「難しそう」と思ったら出来ない学生は手をつけないものなのだ。大体最初っから自分のことを投げているので、そんなものを読んで「やっぱり私は馬鹿だからわかんないや」などと改めて確認したくない。ちょっと読んでもいいかな、と思うのはカラーのページやイラストのついているページだ。そして、ばかみたいに簡単な練習問題で一問でも正解があると自分でも驚いてちょっとだけやる気が出たりする。

   劣等生に限らず、誰が見てもあまり読む気をそそらない教材が多い。同じ説明内容でも、表になっていたり重要ポイントがすっきりまとめてあったりすれば、生徒の気をひくことはできるはずだ。教材を作る時は昔の自分が手に取りそうなものを心がけるようにしている。

先日の異文化体験

よく「日本の文化」だとか「日本の習慣」だとかいうけれど、これもまたなんだか大雑把な表現だと思う。国内でも地方によって文化も習慣も大幅に異なるので、私は自分の知っていることだけを「日本文化」と思い込み、しかもそれを人に教えてしまうのは危険なことだと常々思っている。オーストラリアについても同じことが言える。先日私は家からかなり離れているある町にパーティーに出るために行ってきた。パーティーまで時間があったのでその見知らぬ町をぶらぶらしたのだが、自分の住んでいるあたりに比べて全く違う雰囲気なのに驚いた。まずは店が違う。古本屋に座っている女性はヒッピーみたいな格好だし、お店で売っているファッションもデパートでは売っていないようなユニークなデザインが多い。漢方薬の店も中国のお店というよりは、ちょっとファッショナブルな雰囲気がある。二人連れの女性が歩いているな、と思ったら、一人がもう一人のお尻に手を当て、えっ?と思って見ていると、唇にキスをしていた。男性カップルのは見たことがあったが、女性同士のは初めてだ。パーティーは中近東料理の店であったのだが、ウェイトレスが「これは肉料理ですよ。大丈夫ですか。」と聞くので「勿論。でもどうして?」と言うと「うちに来るお客さんは6割以上がベジタリアンだから」ということであった。我が家から車で40分、そこはまるで外国であった。

世界チャンネル

    こちらではSBS (Special Broadcasting Service) というチャンネルがある。この放送局は多文化、多言語の放送局で、午前5時25分からのNHKニュースを始め、中国語、フランス語、ロシア語、ギリシャ語、アラビア語等々各国のニュースが放映され、また外国語映画も字幕付きでやっている。しかし外国語ニュースには字幕がつかないので「何を言ってるのかわからない」という苦情が、あるオーストラリア人から届いているのを読んだことがある。しかしニュースなど、言葉などわからなくても映像を見ていれば大体の見当はつくし、自国のものを見ているならわざわざ外国のものを見なくても不自由はない。それに、何と言っても各国のニュースキャスターを見るのはそれだけで楽しい。どんな服装をしているか。どんなボディランゲージをするか。一人か二人か。男か女か。二人ならオーストラリアみたいに冗談を言って笑ったりしているか。それとも日本みたいに始終真面目なままか。何か間違えた時や予期せぬことが起きた時どんな対応をしているか、など異文化フェチの私には格好のエンターテインメントだ。言葉がわからないからと言って文句を言う人の気が知れない。

誇りと国籍

オーストラリアでは「恥」は個人のもののようだが、「誇り」となると勿論学校、会社、そして国にまで広がる。こちらで大変有名になったファッション・デザイナーの五十川明さんなどは"Japanese born Australian designer" という肩書きで紹介されることが多い。しかしちょっと調べてみたが、どうも五十川さんが豪州に帰化したという情報はなかった。何かいいことだとオーストラリアンになるみたいだ。反面、犯罪者などは捕まる前に「二十代のアジア系の男」とか「中近東の容貌」などと報道されることが多く、これは例の「フェア・ゴー」ポリシーを支持する人達から「どうしてそんなことまで書くのか。犯罪者がオーストラリア人の場合は『白人の』とか「西洋人の容貌」といった記述はしないのに。」という批判があった。勿論これは犯人を捕まえる手がかりとして伝えているのだろうが、人種による偏見を促すようなコメントと顔をしかめる人達もいるようだ。

恥と顔

昨日「恥」について触れたが「恥」も「本音」と「建前」同様、西洋文化に存在しない「日本特有なもの」であるわけではない。又、「恥」と一緒に話題にされる「顔」の概念についてもそうだと思う。いつか見た英語の映画で男が、友人の集まったパーティーで、皆の前で彼女にプロポーズする。が、彼女はイエスと言わず、それを冗談にしてしまった。パーティー会場を去る彼女を男は追いかけて怒りをぶつける。皆の前で、恥をかかせやがって!と。彼はlost face 、「顔をつぶされた」 といってもいいだろう。
  
  建前も英語圏に存在するが、その内容や程度に違いがあることは先日述べた。顔や恥も同じように、あることはあるが中身がちょっと違う気がする。特に、日本のように個人がしたことが学校や会社といった所属機関の恥になるという考えはあまりないように思う。こちらでは社員が犯した罪に関して、会社が社会に謝罪したりすることはない。個人の恥は個人のものにとどまる。新聞記事でも犯人の勤務先までは書いていない。

教室でのカルチャーショック

教えていて生徒の思わぬ行動にカルチャーショックを受けることがある。教科書の練習問題などをさせて、黒板に答えを書くよう指示をすると、前に来たのはいいがそこで何分もああでもないこうでもない、と考える生徒がたまにいる。これはつまり、答えは出てないのに前に来て、それから考え出しているということだ。日本人ならこんなことをするだろうか。もし考えても考えても答えられない場合、それは「恥」になるので、しないと思う。
  
  なんでこんな生徒がいるんだろう?異文化の疑問が出ると私はなるべくその文化に属する人間に直接質問をぶつけることにしている。機会があったので聞いてみると「それは、自分の行動力を示すためにまずは前に行きます。自分のやる気を見てもらいたいからです。答えられるかとか正解が書けるかどうかは二の次です。」という返答だった。こんな時しみじみと考え方の違いというものを実感させられる。

喜ばれなかった贈物

今日の新聞に空手の大会で勝ち続けているという人の写真が出ていて、よく見たらなんと私のクラスに来ていたR君だった。R君はまだ二十代の若者だが、視力障害がある。しかし子供の時に空手を始め、今はインストラクターとしても活躍中で日本の大会でもなかなかの好成績だったようだ。
  
  最初彼がクラスに来た時、黒板の字は読めないのだと言われてかなり困った。平仮名などを黒板なしで教えるのは無理だ。彼には教科書の普通のサイズの字でも読みづらく、まして細かい振り仮名などは問題外だ。仕方なく、休み時間に、黒板に書いたことをまた彼のノートに書き込んだりした。しかし空手や柔道等をやる人は概して教師に敬意を示してくれる。常に礼を忘れず、話し方が丁寧で、気配りをする「古き良き日本」みたいな人が多い。R君もそんな一人で、付き合っていて気持ちがよかった。

  さてこの話はR君が教えてくれたエピソードだが、異文化トピックなので紹介しよう。ある時オーストラリアの空手の弟子達が日本の師範を訪れ、贈物として、試合中に活躍する師範の写真を渡した。が、包みを開けた途端、彼の顔が曇った。弟子達は厳選した写真の何が悪かったのか全くわからなかった。実は問題だったのは写真ではなかった。彼らは写真を黒い縁に入れて贈ってしまったのだ。師範が喜ばなかったのも無理はない。しかしこれはちょっと責めることのできないような異文化ミスだと言えよう。

語学習得の方程式

敬語に限ったことではないが、教科書に書いてあることを一通り説明して、いくつか練習問題とロールプレイをやらせて、はい、それでは試験、というのはなんだか間違っているような気がすることもある。客観的に見てみると、教科書に書いてある説明だけではわからないことも多くあるし、特に敬語などはウチとソトといった人間関係から心理的な距離などまで関連してくる実に奥の深いものなので、生徒だってマスターするまでにはある程度「熟す」ための時間が必要だと思う。一度夏期講習で毎日、集中的に教える仕事をしたことがある。若い学生達だったのでどんどん憶えてはくれたが、途中で一週間ばかり休暇があり、戻ってきたときには驚くほど忘れていた。その時、憶えるのにかける時間と忘れるスピードというのは比例するのではないかと思った。その点じっくりゆっくり身につけたものはそんなにさっさと忘れることはできないはずだ。私自身、長年こちらに住んでいて、なんとなくわかってきた英語の感覚、というものも色々ある。それは、何度もある表現を目にしたり耳にしたりすることで、徐々に理解してきたものであり、教室で習えるようなものではない。時間をかけるということや、体験を重ねるということも語学習得の一つの要素に違いないのだが、残念ながらその成果は試験までには間に合いそうもない。

敬語は教えるべきか

「正しい敬語ー4割不安」という見出しの新聞記事を見た。自分も自信があるわけではないが、確かに日本人の若者から貰うメール等を読むとえっと驚くようなものが多い。「先生が英語で話してくれたから嬉しかったです。」なんて平然と書いてくるのだから。日本の敬語特集記事にはよく尊敬語と謙譲語の表が出ているが、あれは日本語の教科書に出て来るものとそっくりだ。つまり日本人にもそれほど難しいということなのだ。それを日本語を始めて2、3年の学生達に教えるべきだろうか、という疑問が時たま頭をもたげるのだが、私の場合カリキュラムに入っているのでどうしても導入しなくてはならない。
  
  敬語のように上級者向け内容になると教材も頼りないことが多い。完璧な「尊敬語/謙譲語」表はなかなかなく、穴ぼこだらけだ。例えば「いらっしゃいます」「参ります」等は必ず出ているが、「お休みになる(寝る)」「お召しになる」「おみえになる」「いらして下さい」等は抜けていることが多い。使い方を教えるのも一筋縄ではいかない。放っておくと「私はピーターでございます。学生でございます。今、日本語を勉強致します。漢字を存じております。」といった敬語過剰文が出来てしまう。使いすぎるな、と言ったってどの程度がちょうどいいかなど、実際日本で他の人がどう使っているかを見聞きして初めて身に付くことだろう。

  しかし先日某日本企業で働く生徒が「先生、今日僕、日本から来た上司に敬語で話したらすっごく感心されちゃった。」とほくほく顔でやって来た。彼は真面目ではあるが、特にペラペラな学生でもない。へ〜え、よくできたねえ、と言ったら「この前のスピーキングテストでやったことと同じことを言ったんです。コーヒーを召し上がりますか、とか、いつオーストラリアにいらっしゃいましたか、とか。」そうか、やっぱり敬語はやるべきなのか、と私もちょっと嬉しくなった。

プライベートなお話(3)

さて、「取り」はオーストラリア人のS君だ。彼とは(ちゃんと調べてみたら)1997年からのお付き合いである。最初は学校のクラスの1メンバーで、その後、コースが終わってからも有志が集い家でレッスンを続けたのだが、最終的に彼だけが残った。これはよくあるパターンで他の個人レッスンの女性達も同じ形だった。

  彼は典型的なオーストラリア人ではないと思う。殆どアイコンタクトがないし、ある意味で非常にシャイだ。太っているので自意識の問題なのかもしれないが・・。
日本に興味を持ったのは子供の頃見た、あの、境正章主演の「西遊記」(日本の話ではないが)だったのだそうだ。その後日本のアニメや映画のマニアになり、特に伊丹十三と宮部みゆきをこよなく愛している。一緒に読み続けている宮部みゆきの文庫本ももう2冊めになった。いつかは日本に行って英語を教える計画らしいが、いつ実現するのやら・・。広島には毎年千羽鶴を折って送っているというし、クラスメートのお母さんが亡くなった時は、「いくら他人事でもそういう時に自分が楽しむのはいけない」と言って、行くつもりでいたパーティーにも参加しなかった。なんだか非常に出来ている人間だ。彼を見ていると時たま自分が恥ずかしくなったりする。家でも高齢のお父さんや身障者の姪などがいて、訪日もそんな理由から延び延びになっているのかもしれない。いつかは日本に行って、この数年の努力が報われる時が来ることを願っている。

プライベートなお話(2)

もう一人の生徒も、やはり六十代のインド人女性。彼女は数年間は私の所に来ず大学で日本語をとっていたのだが、なぜだかもの凄い漢字マニアなのだ。とにかく漢字が好きでそれ以外はどうでもいいみたいだ。日本人の友人も何人かいて、十年以上も勉強しているのにベーシックな会話もできない。まあ漢字が好きなのはけっこうなのだが、書き順がめちゃくちゃで、仕上がった漢字は判読不可能だったりする。何回言っても直らない。手本を示そうと、1ステップずつ模倣させようと、結局彼女流に戻ってしまう。いい加減こちらもギブアップしている。こちらにとって有難いのは彼女がリッチでしょっちゅう国内、海外を旅行しておりレッスンは一年に十回前後であること。そのレッスンも、日時変更が3回に2回はあるのだが、私は精神衛生上、毎週のレッスンはごめんだと思う。そして、経済的にはいつでも行けるはずなのに、日本には行かないし、日本人の友達とも英語でしか話していないようなのも、一体この人に教える意味があるのか、という疑問を投げかける。しかし一度だけ、感動させられることがあった。数年前、彼女から来たクリスマスカードに日本語のメッセージが書いてあり、それはなかなか立派な日本語だったからだ。幾つかは間違いもあったので、何かを丸写ししたとも思えない。「へ〜え、彼女、こんなに書けたんだ。」何でも続けていればどこかに表れるものなんだな、と思わされた瞬間だった。

プライベートなお話(1)

  駆け出しの頃はよくプライベート・レッスンをしていたが、ここ数年はとらないことにしている。が、もう十年以上も前から教えている人が三人、それと六年程教えている人が一人、計四人残っている。そのうち二人は一緒に来るのだが、もう六十代の女性達だ。一人はもと精神科医で、もう一人は法廷速記者(あの、映画でよく見る裁判中にタイプをする人)だった。精神科医はスリランカ出身で、法廷速記者はオーストラリア人。今は二人とも退職しているが、特に日本に行く予定もない。日本人の友達がいるわけでもない。日本語はただ、趣味みたいなのだ。話すのはいまひとつだが、二人とも記憶力はものすごくいいし、文法もきちんと理解しているので、日本人向けの物でも読んでいくことができる。私はけっこう自分の趣味で面白いと思うものを選んで渡す。一度、一人が乳がんにかかってレッスンが数ヶ月中断されたが、彼女は全快した。このプライベートレッスン、これからあと何年続くのだろうか。。気長に、のんびりと、好きな教材で教える。テストも採点もない。ただ、何かを読んでその過程を楽しむ。それは教師にとってはちょっとした贅沢にも思える。

日本語よちよち歩き

私は子供がないが、一度友人の子供と散歩に行ったことがある。まだ三つくらいの子だからむこうに歩調を合わせると随分とゆっくり歩くことになる。最初はもどかしいが、段々そのゆったりペースに慣れてくる。そうすると普段は気づかない光景を発見したりする。花が綺麗だね、とか、あ、あんなとこに虫がいるよ、とか・・。

  今プライベートで教えている生徒との授業では、あちらの希望で日本の小説や記事、エッセイなどを読んでいる。そこまで出来るのだから、まあ上級ではあるが、文庫本ともなると一年以上かかる。週一回、一時間の授業だから仕方がないのだが、こちらにとってもどかしいのは確かだ。亀のスピードでの翻訳に授業中ボーッと他の事を考えてしまったりする。が、このスピードだといやでも一文、一文をじっくり吟味することになる。いつもならサッと読んで考えもしないようなことで質問され、「あれ、どうしてかな」といった疑問が出てくる。先日はこんな文があった。「母は母なりに、私の言葉に傷つき苦しい季節を過ごしてきたのだ。」問題は、その「季節」ということばに「とき」と振り仮名がふってあることだった。当然生徒は「これは、キセツなんじゃないですか」・・。著者はどうして「時」と書かなかったんだろう?「季節」と書くことで何を訴えているのだろう?・・・生徒のペースに合わせてよちよち歩くのも実は嫌いではないような気がする。

今日のマナー教室

先々週、先週と無断欠席、おまけに大事な宿題も出していない生徒からメールが届く。「今、両親がヨーロッパに行っています。その間ボクが父の仕事をしなくてはいけなくて、ストレスがたまっています。それから先週は親しくしている人が急に病気になり、脳内出血しているとかで心配でなりません。それから今ボクは風邪をひいてしまっています。それに日本語以外にも提出物が二つたまっています。あ、それから今度漢字のテストがありますよね。どこを勉強したらいいでしょうか。」しかたなく、漢字の復習プリントを添付して一応「大変ですね。」と返信した。それが、三日前。あちらからは返事なし。今日の授業には彼は来ていたが、顔を合わせても何も言ってこない。ま、オーストラリアではこれが普通。しかし、彼はゆくゆくは日本の大学に行って勉強する学生なのである。そこで、愛の鞭。「M君。私のメール、届きましたか。」「はい、届きました。」「あのね、それなら確認の意味で返信してくれなくちゃダメですよ。」はっと顔を上げ私を見る。「あなたは日本に行くんだから、日本ではこうだ、って今教えておきます。あのまま返事もしないなんて日本では失礼です。」そしてクラスに向かって言う。「日本ではこんな時迅速に返事をしなくてはいけません。それから、さっき、私とドアの所まで歩いて来て、先に入った人がいましたね。日本でならあの時どうするべきか、知っていますか。」「先生が先に入ります。」聞けばちゃんと正解が戻ってくる。しかし恐らく行動する時は無意識にやってしまっているのだろう。私自身はこんなことをさせるのは威張っているようで嫌だが、日本に行って彼らが目上の人間に睨まれないようにしてやらなくてはならない。日本語以外にも教えることは山ほどあるのだ。

言いたくなること教えてよ

日本語に限らないが、外国語の学習者がその国に行って住むと飛躍的に上達する理由の一つは、「どうしても言いたい」「言わなきゃ」という状況に毎日さらされるからではないだろうか。だから教室でも、そんな感情を起こさせる教材を使うのが理想だと思う。本を手にした人に「これは本ですか。」と聞かれたって、言いたくなるのは「はい、そうです。それは本です。」よりも「あたりまえじゃん。何言ってんの?」ではないか。他にも「りんごとみかんと、どちらのほうが好きですか。」なんて、あんまり現実的な質問とは思えない。そんな質問をする人と心から、洒落た会話が楽しめるだろうか。しかしあまりにも多くの教科書で、「比較」といえばこんな例文が出ているから、新しく出版される教科書も皆「右へならえ」してしまっている感がある。

   その点、感情そのものを表すフレーズは、どのクラスでも何の工夫もせずに紹介するだけで馬鹿受けするのだ。「頭に来る」「冗談言わないでよ」「ほっといてくれよ」など、普段は不真面目な学生もわざわざノートに書きとめていたりする。若い学生だとすぐに「先生、日本語のswear words(ののしりの言葉)教えてよ。」と言ってくる。こうした「言ってみたい」気持ちをうまく利用した教材が欲しいな、とつくづく思う。

ジスイズアペン

教科書には時たま変な例文や練習問題が出ていることがある。例えばこれ。
「これは名刺ですか。」「いいえ、名刺ではありません。本です。」
これ、変だよね?というといつもクラスがどっと笑う。名刺と本の区別がつかないような人がいるのであろうか。他にも例の「これは何ですか。」「電話です。」「それは何ですか。」「時計です。」よっぽど何か他の物の形をしていて、「それが実はね、ホラ、これ、時計なんですよ!」という状況ででもなければ、こんなこと言うはずがない。日本語の教科書ではいまだに存在するこの「ジスイズアペン」の世界は、コミュニカティブ・アプローチの概念からはかけ離れたものである。何かわかっているのに「これは何?」と聞くわけがないし、そこには「答えを知りたい」という意欲が完全に欠落している。いくら文型練習とはいえ、白々しく面白くも何ともないものになってしまう。そこで昔は、オーストラリアにまだテレホンカードがなかったので、日本のを持参して「これは何ですか、名刺ですか。」などとやっていた。これで少なくとも学生は「え?そうかな。似てるけど、なんか小さい穴があいてるし・・。」と少し考えなくてはならなくなった。そして、「一体何なんだろう?」という興味が湧いた。その後こちらでもテレホンカードが出来、今はもう携帯の時代になってしまったが、いまだに「これは何ですか。」の練習にはひと工夫しなくては、と思ってしまう。

建前にも色々・・

体験的・日米摩擦の文化論という本の一部の「ホンネとタテマエ」に関する章がINTERMEDITATE JAPANESE という教科書に載っていた。著者志村史夫氏は米国居住者だが、学会などでアメリカに来た日本人に「今度ご帰国の際は講演して頂けませんか。」といった依頼をよく受ける。が、それが本音なのかお世辞なのかがよくわからず、真に受けてスケジュールの調整までして馬鹿をみたことさえあると言っている。「タテマエあるいは挨拶代わりに”講演を頼む”という発想が良く理解できない。」・・このように日本人でも本音と建前の判断に迷うことがある。英語圏でも本音と建前はあると昨日書いたが、建前またはお世辞でこの類の「依頼」までするようなことはやはりないだろう。前、オーストラリア人の「建前」の例を生徒に尋ねたところ、エクゼクティブである学生がこう言った。「例えば新社員の面接をする時、もう最初の数分でこの人は問題外だと判断しても、一応最後まで面接を続けて、社内も案内して見せること」。しかしここで、絶対採用するつもりのない応募者に、建前で「ウチに入ったら是非この製品の開発に協力して頂けませんか。」などと言うことはないだろう。英語圏でも建前はある。が、その内容又は程度が違うのだ。

義理、本音、建前

「義理」という概念はあたかも日本特有のもののように、よく日本紹介の本などにgiriという綴りで書かれているが、昨日のエントリーの「お箸の国」では勿論のこと、英語圏でも、人間関係においての重要度が異なるだけで同じコンセプトは存在すると思う。英語圏でもなにか親切を受けると" I owe you one " (一つ借りが出来たね)という表現があり、それこそ例の「帳簿」に記入がされるような響きだ。「本音」と「建前」も又日本独特のように言われるが、もし「建前」がなく「本音」でしかコミュニケーションしない社会があったとしたらそれこそジム・キャリーのコメディ「ライアーライアー」のようになり一大事だ。嘘も方便、white lie があってこそ世の中成り立つのだ。日本だけを色眼鏡で見なくてもいいと思う。

『お箸の国」の秘密の帳簿

今日Moni Lai Storz というマレーシア生まれの中国人が書いた"Dancing with Dragons"という本を読み返してみた。「義理」に関して面白いことが書いてあったのを思い出したからだ。彼女は中国、韓国、ベトナム、日本を「お箸の国」として一つのカルチャー・グループとして扱っている。そして「意識的にであれ、無意識的にであれ、お箸の国の国民は義理の帳簿を抱えている。そしてその帳簿に好意の貸し借りを記入し続ける。その好意が積み重なるにつれて人間関係もさらに密接なものになっていくことを確実にする。」と分析している。
   
   豪州および他の西洋諸国で、これが同じレベルで行われないのは、一般に人間関係が短期であることが原因なのかもしれない、とふと思った。昨日ご近所の話をしたが、こちらの人はどんどん引っ越す。お隣さんもお向かいさんも何度も変わる。職場にしたって、上司は社員が三年いてくれたなら、まずまず満足だ、という調査結果を読んだことがある。つまり好意の貸し借りで人間関係に「投資」する意味がないのかもしれない。

義理人情、賛成?反対?

何年も前に誰かが言った、特に意味もないような一言が、なぜか忘れられないということはないだろうか。一時日本企業でバイトをしていた時に、上司が言った一言が、なぜだか私の心に残っている。彼はイギリスに住んでいた時を振り返って、「なんといっても自分の家の前しか掃かないような人種だからね。」と英国人を評したのだ。

   自分の家の前しか掃き掃除をしない。これは悪いことだろうか。日本なら、ついでだし、ご近所の家の前も掃いておくだろう。しかしそれをすることによって、「ご近所」は恩をきせられることにもなるのも否めない。もし「ご近所」が掃き掃除をする時に「恩返し」をしなかったら人間関係は悪化しかねない。見返りを当然と期待した親切であることが多い。

   日本人の友達で、もうこちらに長いのに、どうしても日本式を期待し続けて怒り続けている人がいる。彼女の好意や親切はこちらでは必ずしも「恩返し」されないので、「失礼な人!」ということになる。いつ話してもそのような違いによるストレスが溜まっている。

   私はその点あまり気にしないほうだ。義理人情のない世界はある意味で開放的である。あっちはしてくれない、でもそれはつまり、こっちもしなくていい。勿論オーストラリアにだってある程度のギブアンドテイクはあるけれど、日本ほどうるさくない。私はそれをエンジョイするように努めている。お隣はお隣で、気が向いた時に自分の家の前だけ掃いておいてくれればいい。私は私でうちの前だけ掃いてもいいし、もしお隣の分もやるなら、それは見返りへの期待ゼロの、心からの親切でなくてはならない。

あなたのカタカナ何バージョン?

昨日のエントリーを書いてからはっとした。「セクハラ」は「セクシャル」ハラスメントでよかったか。調べてみると「セクシュアル」のほうが多いようだ。そこで「セクシュアル」に書き直した。外国にいると他の日本人が言っているのを聞く機会が少ないので、結局インターネットに頼ることになる。とにかくバージョンが二つあるのだ。このように新しい言葉やあまり頻繁に使われない言葉は日本人によって書き方が違うようだ。私は英語環境にいるので、つい発音に基づいたスペリングにしてしまう。sexual もセクシャルの方が音に似ていると思う。カタカナ語はこのように音を「聞いて」決めたものと、スペリングを「見て」決めたものとがあるようだ。例えば学生の名前をカタカナにする時も、私のスペリングが、前の日本人の先生のものと一致しなかったりする。Melissa という女子名なら、私は「メリサ」と書くが、「いえ、メリッサだと前の先生が言いました。」と主張されることもある。これは恐らくSSの綴りを見て促音になったのであろう。とにかく最初の先生が言ったことは黄金律になるようで途中から変えたがる学生はいない。ちなみに豪州の有名人の名をカタカナにしてから日本のインターネットを見てみると、私のスペリングはボロボロ「間違っている」。

カタカナ・パズル

どうして片仮名語は学生にとってこんなに難しいのだろうか。原因を探ってみるといくつかある。まず、きのう紹介した「スナック」「ママ」「アタックする」など日本特有の使い方をしている場合は辞書に書いていない限りはなかなか推測できない。それと「パターン」のように英語の本当の発音と著しく異なる場合もわからない。前"Sydney" は「シドニー」と教えたら、日本の会社で働いている男性が「あ!それだ!それ!会社でみんなが毎日言っているのは!」と興奮していた。つまり彼は毎日「シドニー」という言葉を聞いていながらそれが"Sydney"だとわかっていなかったのだ。"Canberra" が「キャンベラ」と言うと「え?どうして?どっちかっていうとカンベラなんじゃない?」というネイティブの意見が多い。そして「アンケート」「アルバイト」等英語以外の言葉から来ているものは当然わからないし、「シーズンオフ」など順番が変わっているのもひっかかる。(英語ではoff seasonと言う。)
  
さて、これが略語になるとさらに学生は首をひねる。パーソナルコンピューターがパソコン、セクシュアルハラスメントがセクハラ、など。私も新聞で初めて「リストラ」という言葉を見た時はピンと来なかったのを憶えている。リスと虎かと思った。(爆)
  
なんでこんなにわかりにくくするの?というクレームが来たら「何言ってるの。英語でもするじゃない。」というのが一番効果がある。日本語ほどでないにせよ「オーストラリア語」でも言葉を短くする傾向は顕著だ。Biscuitが Bickie, Postmanが Postie, Afternoon がArvo, Breakfast がBrekky, MosquitoesがMozzies などなど。どこの国でも言葉は早く言えたほうがよいものらしい。

難しい片仮名語

今朝の授業。日本の小説を読む。が、学生がつまずくのは漢字よりもかたかな語。「スナックのママ」スナックってポテトチップスとかそういうの?いえいえ、これはバーみたいなとこです。え?どうしてそこにお母さんがいるわけ?ーここで言う「ママ」は女性のオーナーとでも申しましょうか。「彼女にアタックした」え?どうしてここで好きな人を襲うんですか。ーこれは攻撃じゃなくて、好きな人の好意を得ようと接近すること。「定着したパターンだ」パターン?パターン?ここで学生何度も繰り返して口に出してみるがわからない。英語の発音は「バトゥン」と短く、延びる音はどこにもないのだから無理もない。patternのことだと種明かししても、文脈上和製英語的に使われているから訳し方がわからない。このような和製英語は辞書をひいても必ずしも意味が出ていないので、学生の訳は本来のストーリーからどんどんずれていったりする。
  
他にも「オレ、なんかヘンな感じがした」「ツイてない」など外来語でないのに片仮名が使われていると不思議に思うらしい。いつ漢字にしていつ片仮名にするのか、そのへんの心理を説明するのはなかなかムズカシイ。