今、前教えていた生徒で日本に英語を教えに行っている人が二人いる。その一人から昨日メールを貰った。(以下、原文はまだ英語!)「先生お元気ですか。僕は元気です。(中略)・・・ところで今僕が英語を教えている学校の日本人の同僚が、今日こっそり教えてくれたことがあります。彼は実は現状に満足しておらず、僕が今していること、つまり海外に出て語学を教えているのを見て、自分もそういうことがしたくなったと言うのです。彼は外国で英語か日本語を教えたいらしいです。そこで、先生のメールアドレスを教えてもいいでしょうか。」
日本語教師なんて、不安定だし、給料はよくないし、あまり勧められる仕事には思えない。一生懸命教えた生徒でも、数年後ばったり会うと、もう「こんにちは」
くらいしか言えなくなっていて一体自分の努力は何だったんだろうと思うこともしばしばだ。が、たまにはこのように実際日本へ飛び立って行ってくれる生徒もいる。そうなると、この人の人生の方向を少し変えたんだな、というちょっとした達成感がある。そして、昨日のようなメールを貰うと、今度はその生徒が他の誰かの人生に影響を与えているのを実感する。波紋は自分の知らない所までどんどん広がっているのかもしれない。そういう意味では、日本語教師はお金にかえられないものを得られる仕事だ。
日本語教師が変える人生
秘密のない家族
昨日の続きになるが、家族に関しては複雑なバックグラウンドのある人達もわりとオープンに、何も隠さず言ってくることに、最初はよく驚かされたものだ。「うちはStep mother とStep brother/sister がいるんですが、日本語では何と言えばいいですか。」などと聞かれる。継母?腹違いの兄弟?なんか日本語にするとひどくネガティブな響きになってしまう。Adopted (養子)の場合も皆堂々とそう言ってくるし、こちらの人は白人の夫婦でも、アジアやアフリカから養子をとるので、聞かなくてもはっきり養子だとわかることもある。「私はorphan(孤児)なんです。夫もそうです。」と言ってきた人もいた。こういったことを公言するとすぐに差別される日本から来た者には信じがたいことだが、それだけオーストラリアでは差別がないという証なのかもしれない。(しかしやはり訳には困ってしまう。)
教科書に出て来る危ないトピック
教科書についてもう少し・・。一見当たり前のような教科書のトピックがクラスによっては非常に困る場合がある。例えば人の容姿についての課。「背が高い」「背が低い」あたりはまだしも「やせている」「太っている」のところで本当にすごく太っている学生がいるとやりにくい。当人が自嘲的に「これ、ボクです。」などと言うと返す言葉もなくなってしまう。まだ高校生くらいの年齢の生徒達だとこれがいじめの原因になってしまわないかとハラハラさせられる。
「結婚する」はいいが「離婚する」で本当に最近離婚した人がいると気まずい。一度学生に、「先生、私、今度から名字が変わりますのでお知らせします。」と言われ、「あら、結婚するの?おめでとう!」と言うと実は離婚で大恥をかいたことがある。
オーストラリアでは、離婚率が約50%であり、とかく家族の話題には気をつけなくてはならない。継母の場合、なんと呼ぶのか、とかパートナーの子供でも息子、娘でよいのか、など日本でならおそらく黙っているようなことをこちらの人はよく聞いてくるものだ。
また、ゲイの生徒もたまにいる。ゲイの場合、通常相手を「マイ・パートナー」と言うので、そのへんはすぐに察して「奥さんのお名前は?」などと聞かないようにしなくてはならない。(注:同棲中の相手は異性でもマイ・パートナーと呼ばれるようだ。)
自分が学生として入っていた語学クラスで、先生が何かお母さんについてのことを聞いた時、18歳くらいの女子学生が、「母は・・亡くなったんです。」と言った途端号泣しだしてしまった。それを聞いたもう一人の学生がなんと「私のお母さんもよ!」と言って今度は二人でわあわあ泣き出した。呆然とするクラス。口もきけなくなっている先生を見て私は同情してしまった。こんなに普通のトピックを提供したにもかかわらず、クラスは大失敗だ。
「結婚する」はいいが「離婚する」で本当に最近離婚した人がいると気まずい。一度学生に、「先生、私、今度から名字が変わりますのでお知らせします。」と言われ、「あら、結婚するの?おめでとう!」と言うと実は離婚で大恥をかいたことがある。
オーストラリアでは、離婚率が約50%であり、とかく家族の話題には気をつけなくてはならない。継母の場合、なんと呼ぶのか、とかパートナーの子供でも息子、娘でよいのか、など日本でならおそらく黙っているようなことをこちらの人はよく聞いてくるものだ。
また、ゲイの生徒もたまにいる。ゲイの場合、通常相手を「マイ・パートナー」と言うので、そのへんはすぐに察して「奥さんのお名前は?」などと聞かないようにしなくてはならない。(注:同棲中の相手は異性でもマイ・パートナーと呼ばれるようだ。)
自分が学生として入っていた語学クラスで、先生が何かお母さんについてのことを聞いた時、18歳くらいの女子学生が、「母は・・亡くなったんです。」と言った途端号泣しだしてしまった。それを聞いたもう一人の学生がなんと「私のお母さんもよ!」と言って今度は二人でわあわあ泣き出した。呆然とするクラス。口もきけなくなっている先生を見て私は同情してしまった。こんなに普通のトピックを提供したにもかかわらず、クラスは大失敗だ。
教科書のジレンマ
今まで何冊の教科書を使ってきただろうか。しかし残念ながら、これっ!というような、人に推薦したくなるような素晴らしいテキストにはまだ巡り会っていない。教科書を作る側は、私の学生がどの国に住んでいて、どのくらいの年齢で、どんな学習目標があり、どんなことに興味があるのかまではわからないわけだから、それはまあ仕方がないといえば仕方がないことでもある。
だからある程度は個々のクラスに合った教材を、教師が作ることになるわけだが、やはり手作り教材のみでは賄えない部分もある。例えば聴解練習。生徒には教師の声だけでなく、老若男女の色々な話し方を聞いて欲しい。できれば電話の音や車の音などの音響効果があると雰囲気も出るし楽しくなる。が、そこまでして自分の教材専用のテープ/CDを作るのは一人では不可能な、かなりの大仕事だ。
さらに教科書に出ている各ダイアログのビデオもあると、クラスはますますよくなる。どんな状況で、どんなボディランゲージで言葉を使っているかも見ることができる。しかし、個人が俳優を雇ってビデオまで制作するとなると本業の方を一時ストップしなくてはならないし、費用はおそらく教師の収入以上かかってしまうだろう。
こういった理由から、できるだけテープやビデオ付きの教材を選ぶことになるのだが、学生に視聴覚教材は買わせないにせよ、単に教科書とワークブックだけでも海外まで来るとかなりの高額になる。学生によってはとても買えない値段になってしまうのだ。また、学校側に視聴覚教材の購入を頼んでもなかなか予算がなかったりする。結局、内容だけでなく値段も考えて選ばなくてはいけないことになる。理想とはかけ離れているが、これが現実である。今後インターネット等の利用で、視聴覚教材がもっと安価に、手軽に利用できるようになることを願っている。
だからある程度は個々のクラスに合った教材を、教師が作ることになるわけだが、やはり手作り教材のみでは賄えない部分もある。例えば聴解練習。生徒には教師の声だけでなく、老若男女の色々な話し方を聞いて欲しい。できれば電話の音や車の音などの音響効果があると雰囲気も出るし楽しくなる。が、そこまでして自分の教材専用のテープ/CDを作るのは一人では不可能な、かなりの大仕事だ。
さらに教科書に出ている各ダイアログのビデオもあると、クラスはますますよくなる。どんな状況で、どんなボディランゲージで言葉を使っているかも見ることができる。しかし、個人が俳優を雇ってビデオまで制作するとなると本業の方を一時ストップしなくてはならないし、費用はおそらく教師の収入以上かかってしまうだろう。
こういった理由から、できるだけテープやビデオ付きの教材を選ぶことになるのだが、学生に視聴覚教材は買わせないにせよ、単に教科書とワークブックだけでも海外まで来るとかなりの高額になる。学生によってはとても買えない値段になってしまうのだ。また、学校側に視聴覚教材の購入を頼んでもなかなか予算がなかったりする。結局、内容だけでなく値段も考えて選ばなくてはいけないことになる。理想とはかけ離れているが、これが現実である。今後インターネット等の利用で、視聴覚教材がもっと安価に、手軽に利用できるようになることを願っている。
誤解されやすいコトバ
誤解されやすい言葉は英語にも日本語にも色々ある。例えば月曜日に話をしていて、Next Fridayに会おう、と言われたら、これは来週の金曜ではなくて、今週の金曜である。日本語でも「今度」という言葉はややこしい。英訳するとthis time にも next time にもなる。「また今度誘ってね。」と言うとnext timeだし、「この前はできなかったけど、今度はうまくいくはずだ。」と言えばthis timeである。私の学生が日本の喫茶店に行って、「コーヒーはいかがですか。」と聞かれたので「コーヒーはいいです。」と答えた。彼は"I would like coffee." の意味で使ったのだが、勿論待てど暮らせどコーヒーは来なかった。同じように「けっこうです。」もそれでいい、という意味なのか、ノーサンキューの意味なのか紛らわしい。「ええ」と「いいえ」も初心者には同じに聞こえるようだし、「うん」と「ううん」も首を振ってボディランゲージを加えないとはっきりしない。状況によって、どちらにもとれるような表現は教科書も、「今度=this time」「けっこう=good, fine」というふうに書かずに、注意のポイントの記述があると学習者も助かると思う。
時間の感覚
「The Beatles Anthology」でリンゴ・スターが日本公演を振り返ってこう語っている。「日本人は時間に徹底している。僕達を、7時14分に部屋から出し、7時15分30秒までにエレベーターに乗せたい。そうするとエレベーターから車までが1分8秒かかる、などなど。でも(ホテルの)ドアをノックしても僕たちが出て来ないからタイミングが狂い、7時14分20秒までに廊下を歩いていないから、彼らは完全にパニック状態に陥っていた。」
これは大げさだとしても、確かに日本人は時間にうるさい人種である。それゆえオーストラリアにいると時間が原因でイライラすることが多い。電車は遅れるだけならまだしも理由もなく「キャンセル」されることが頻繁だし、何か問い合わせのメールなど送っても、当日返事が来たりしたら奇跡で、一週間くらいは平均かもしれない。先日貰った返事は数ヶ月前にした問い合わせのもので、実はもう他のスタッフから返事を貰っているのに、違う人からもう一度届いていた。ここまで来るともうこちらから返事をする気力もない。
さて、A couple of days という表現はよく使われるが、私はこれを当然「二日」なのだと思っていた。が、ネイティブに言わせるとこれは「数日」と解釈するべきなのだそうだ。つまり、3−5日くらいになる可能性もある。これは、一緒に聞いていたドイツ人も「えっ!そうなの?ずっと2日のことだとばかり思っていた。」と驚いていた。ドイツ人は割と几帳面で、日本人と似ている。彼もオーストラリアの時間の感覚には戸惑うことが多いと言っていた。
他にも、カウンターなどで、"I'll be back in 2 seconds" と言われることがよくある。これはまあ常識で考えても2秒でどこかに行って、用を済まして戻ってくるのは不可能だということがわかる。それならそれでどうして「少々お待ち下さい。」と言わないのか不思議になるのだが。
しかし異文化コミュニケーション上、「少々」、「数日」、「後ほど」または「出来るだけ早く」などという表現は国籍によって解釈の仕方が違うので注意を払うべき言葉であろう。こういった曖昧な表現を使われたなら「じゃ、2日くらいでしょうか。」などと確認をしておいたほうがトラブルの防止になるかもしれない。
これは大げさだとしても、確かに日本人は時間にうるさい人種である。それゆえオーストラリアにいると時間が原因でイライラすることが多い。電車は遅れるだけならまだしも理由もなく「キャンセル」されることが頻繁だし、何か問い合わせのメールなど送っても、当日返事が来たりしたら奇跡で、一週間くらいは平均かもしれない。先日貰った返事は数ヶ月前にした問い合わせのもので、実はもう他のスタッフから返事を貰っているのに、違う人からもう一度届いていた。ここまで来るともうこちらから返事をする気力もない。
さて、A couple of days という表現はよく使われるが、私はこれを当然「二日」なのだと思っていた。が、ネイティブに言わせるとこれは「数日」と解釈するべきなのだそうだ。つまり、3−5日くらいになる可能性もある。これは、一緒に聞いていたドイツ人も「えっ!そうなの?ずっと2日のことだとばかり思っていた。」と驚いていた。ドイツ人は割と几帳面で、日本人と似ている。彼もオーストラリアの時間の感覚には戸惑うことが多いと言っていた。
他にも、カウンターなどで、"I'll be back in 2 seconds" と言われることがよくある。これはまあ常識で考えても2秒でどこかに行って、用を済まして戻ってくるのは不可能だということがわかる。それならそれでどうして「少々お待ち下さい。」と言わないのか不思議になるのだが。
しかし異文化コミュニケーション上、「少々」、「数日」、「後ほど」または「出来るだけ早く」などという表現は国籍によって解釈の仕方が違うので注意を払うべき言葉であろう。こういった曖昧な表現を使われたなら「じゃ、2日くらいでしょうか。」などと確認をしておいたほうがトラブルの防止になるかもしれない。
これで外交官?
私が今使っている教室は、普段教育学部が使うらしく、壁の三面に"Clarity" "Eye Contact" "Movement" と一枚ずつポスターが貼ってある。おそらく教習生の為のものであろう。「アイコンタクト」については昨日書いた通りだ。今日は「ムーブメント」で思い出したことがある。
こちらの大学で、日本史に関する講義をとっていた。ある日、そのコースの日本人講師が、日本人のゲストスピーカーを連れて来た。なんでも外交に関わっている偉い方だという。どんな講演なのかわくわくした。しかし、驚いたことに彼はずっと教室の前に座ったまま、下書きしたものを読み上げただけ。しかも、英語で質問があり、その意味がわからないと、質問してきた学生に直接聞くことをせず、日本人の先生に日本語でこそこそと聞く始末。普通の日本人がこれをやったならわかる。英語だと緊張するだろうし、そばに日本人がいれば聞きたくもなるだろう。しかし彼の場合は外交を仕事として、今まで世界を飛び回ってきた人間なのだ。こんな人が日本を代表しているのかと思うと心底情けなくなった。
次の週は西洋人のゲストスピーカーが来た。彼はあの日本人と全く違った。一度も座ったりはしない。教室内をぐるぐると歩き回り、聴衆に近づいてくる。アイコンタクトがある。自分の話している内容に情熱が感じられる。素晴らしかった。そして又あの日本人を思い出して再び落胆した。なんでこんなに差があるのだろう。
日本人は本当に人前で話すのに慣れていないと思う。そういう私も日本にいた頃はちょっと何かをクラスの前で話すのにも足ががくがくするほど緊張した。その点こちらの人は何を話させても堂々としている。やはり子供の頃から"Show and Tell"などと自分の好きな物を持参してクラスの皆に話すといった訓練をしているので土壌が違うのかもしれない。
机やイスなどが生徒と先生の間にあるだけで、もう心理的な壁を作っていると言われる。三時間も突っ立っているのはかなり疲れるのだが、なるべく自分の机の前に出て、生徒に近づき、動こうと心がけている。
こちらの大学で、日本史に関する講義をとっていた。ある日、そのコースの日本人講師が、日本人のゲストスピーカーを連れて来た。なんでも外交に関わっている偉い方だという。どんな講演なのかわくわくした。しかし、驚いたことに彼はずっと教室の前に座ったまま、下書きしたものを読み上げただけ。しかも、英語で質問があり、その意味がわからないと、質問してきた学生に直接聞くことをせず、日本人の先生に日本語でこそこそと聞く始末。普通の日本人がこれをやったならわかる。英語だと緊張するだろうし、そばに日本人がいれば聞きたくもなるだろう。しかし彼の場合は外交を仕事として、今まで世界を飛び回ってきた人間なのだ。こんな人が日本を代表しているのかと思うと心底情けなくなった。
次の週は西洋人のゲストスピーカーが来た。彼はあの日本人と全く違った。一度も座ったりはしない。教室内をぐるぐると歩き回り、聴衆に近づいてくる。アイコンタクトがある。自分の話している内容に情熱が感じられる。素晴らしかった。そして又あの日本人を思い出して再び落胆した。なんでこんなに差があるのだろう。
日本人は本当に人前で話すのに慣れていないと思う。そういう私も日本にいた頃はちょっと何かをクラスの前で話すのにも足ががくがくするほど緊張した。その点こちらの人は何を話させても堂々としている。やはり子供の頃から"Show and Tell"などと自分の好きな物を持参してクラスの皆に話すといった訓練をしているので土壌が違うのかもしれない。
机やイスなどが生徒と先生の間にあるだけで、もう心理的な壁を作っていると言われる。三時間も突っ立っているのはかなり疲れるのだが、なるべく自分の机の前に出て、生徒に近づき、動こうと心がけている。
アイコンタクト
就職や面接のトピックで色々調べてみると、「面接では相手の目を見て話しましょう。」とよく書いてある。本来日本人は直接相手の目をじっと見たりはしないはずだが、最近は変わってきたのだろうか。私が行った日本語教師養成講座では、西洋人に教える時は、アイコンタクトが非常に重要である、と習った。確かにこちらの人はじーっと人の目を見て話す。人によってはその見つめ方があまりにも強くて、怖い感じさえする。恋の絶頂の二人でも日本人ならここまでは見つめあわない、というような強さで授業中に見つめられると恥ずかしくもある。
特にアイコンタクトが強いなあ、と感じていた一人の学生が日本から帰って来てこう言った。「日本の女の子をちょっと誘いたかったんだ。飲み屋とかでね。でもできなかった。なぜかって?だって全然目が合わないんだもの。きっかけができなかったよ。」ふ〜ん、そうなのか。目が合った時点で話すものなんだ。そう言えばスーパーのレジ等でレジ係が、自分の前のオーストラリア人のお客さんには、How are you? とか話しかけてるのに、自分の番になると一言も言わないのは人種差別なのかと思っていたが、もしかしたらアイコンタクトの問題なのかもしれない。私も心がけてはいるのだが、ちょっとうっかりすると授業中も誰の目も見てないことが多い。数年前、日本の会社でバイトをした時、日本人男性に話しかけられた。が、あまりにも視線がずれている。え?もしかして、私の後ろにいる誰かに話してるの?とつい確認の為振り返ってしまったが、やはりそこには壁しかなかった。
特にアイコンタクトが強いなあ、と感じていた一人の学生が日本から帰って来てこう言った。「日本の女の子をちょっと誘いたかったんだ。飲み屋とかでね。でもできなかった。なぜかって?だって全然目が合わないんだもの。きっかけができなかったよ。」ふ〜ん、そうなのか。目が合った時点で話すものなんだ。そう言えばスーパーのレジ等でレジ係が、自分の前のオーストラリア人のお客さんには、How are you? とか話しかけてるのに、自分の番になると一言も言わないのは人種差別なのかと思っていたが、もしかしたらアイコンタクトの問題なのかもしれない。私も心がけてはいるのだが、ちょっとうっかりすると授業中も誰の目も見てないことが多い。数年前、日本の会社でバイトをした時、日本人男性に話しかけられた。が、あまりにも視線がずれている。え?もしかして、私の後ろにいる誰かに話してるの?とつい確認の為振り返ってしまったが、やはりそこには壁しかなかった。
スマイル厳禁
日本の履歴書の話の続き。英語の履歴書には絶対書かないような、健康状態、通勤時間、家族についての詳細などが入っていることも学生には驚きである。そして、履歴書に貼る写真は、笑わずに真面目な顔をしていなくてはいけない。これはパスポートでも同じ。しかし、こちらの人はパスポート写真でニカッと笑うのが普通なのだ。私の教え子で日本の高校に行っていた子がいるのだが、学生証の写真撮影でニカッと笑ってシャッターを待っていたら、英語のできないカメラマンがなぜか口を閉じろと言う仕草。日本語もまだ全然わからなかったのでそのまま笑い続けていると、カメラマンのほうが閉口して笑い出してしまったとか・・。しかし最近テロ防止の安全対策で、笑顔だとコンピューターが顔の認識をしにくいとやらでパスポートに笑顔は御法度になったとかいう話も耳にしたのだが本当だろうか。
パスポートならともかく、日本では結婚写真でさえも真面目な顔をしなきゃいけないというのはこちらの人には理解しがたいようだ。ハッピーな日なのにどうして?と不思議がる。
又、日本人のあいまいなスマイルは、必ずしも喜びではなく、羞恥を隠す為や、謝っている時にも見られるので不可解だと言われる。何でも笑って忍耐の日本人なのであろうか。
パスポートならともかく、日本では結婚写真でさえも真面目な顔をしなきゃいけないというのはこちらの人には理解しがたいようだ。ハッピーな日なのにどうして?と不思議がる。
又、日本人のあいまいなスマイルは、必ずしも喜びではなく、羞恥を隠す為や、謝っている時にも見られるので不可解だと言われる。何でも笑って忍耐の日本人なのであろうか。
なんでもフェア・ゴー
日本の就職のトピックを教える時は、当然求人広告や履歴書などの話題になる。日本では勝手に履歴書をタイプせず、文房具屋に行ってそれ専用のフォームを買い、手書きで記入する、というと皆かなり驚く。そして写真も貼る、というと二度驚く。あるオーストラリア人女性は「写真ですって!? それじゃ、美男美女だけが選ばれる可能性があるってことですか!すごい差別だわっ!」と叫んでいた。こちらの求人広告は、性別や年齢制限は一切出ていない。これまた差別の防止である。履歴書にも年齢は書く義務はないし、面接で既婚者かどうかとか子供の有無を尋ねるのもタブーである。すべてがフェアでなくてはいけない。これがオーストラリアン精神「フェア・ゴー」である。
これは教育の場でも同じで、与えられた成績に不満や疑問のある学生は「アピール」と言って、どうしてそのような成績になったのか理由を問い合わせたり、または自分の言い分を主張し、見直しを要求することが出来る。これは勿論不合格になった学生が利用することの多い制度である。しかも驚くことにここまですると、けっこう学生の主張が通ってしまう、というか「通してしまう」ことが多いようだ。前、日本語をちょっとかじったことがあるような学生が、ろくに出席もせずに落ち、最後にいちゃもんをつけて来ると頭に来るのだが、学校側は割に甘い。これがフェアゴーなのだろうか。教師にはそう見えないこともしばしばだ。
これは教育の場でも同じで、与えられた成績に不満や疑問のある学生は「アピール」と言って、どうしてそのような成績になったのか理由を問い合わせたり、または自分の言い分を主張し、見直しを要求することが出来る。これは勿論不合格になった学生が利用することの多い制度である。しかも驚くことにここまですると、けっこう学生の主張が通ってしまう、というか「通してしまう」ことが多いようだ。前、日本語をちょっとかじったことがあるような学生が、ろくに出席もせずに落ち、最後にいちゃもんをつけて来ると頭に来るのだが、学校側は割に甘い。これがフェアゴーなのだろうか。教師にはそう見えないこともしばしばだ。
おみやげの行方
今日は懐かしい学校時代の友達から手紙を貰った。私の新しいメールアドレスがわからなかったからなのだが、久しぶりに貰う「本当の手紙」はなんと心温まるものなのだろう。手紙を書いて、封筒に入れ、切手を貼ってからポストに向かう、というのがなかなかできない私なのでこれからもEメールを手放せないことはわかっているが・・。
ところでこの友人のご主人がこちらで働いていた時に受けた相談を思い出した。異文化トピックなので今日のネタに使わせてもらおう。彼は職場に日本からのお菓子を持って行き、上司に「皆さんでどうぞ。」と手渡した。ボスはサンキュー、と受け取ったが、その後、職場の同僚の誰一人からも「あれ、おいしかったよ。」とか「ありがとね。」とかいうコメントがない。あのお菓子は本当に皆で食べてくれたのだろうか、というのが質問だった。こちらでは、旅行から帰っても職場の同僚におみやげを渡すという習慣はない。従って、Please share it with everyone と言ったら、個人から個人への贈物と取られ、もしかしたらボスは家族と「シェア」したということは考えられないだろうか。しかし、こちらの人間に聞くと、「いや、それはきっと同僚が食べてはいるのだけれど、英語では後になって礼を言うことがないからなのでは?」という意見だった。という訳でいまだにあのおみやげの行方はわからぬままだ。
ところでこの友人のご主人がこちらで働いていた時に受けた相談を思い出した。異文化トピックなので今日のネタに使わせてもらおう。彼は職場に日本からのお菓子を持って行き、上司に「皆さんでどうぞ。」と手渡した。ボスはサンキュー、と受け取ったが、その後、職場の同僚の誰一人からも「あれ、おいしかったよ。」とか「ありがとね。」とかいうコメントがない。あのお菓子は本当に皆で食べてくれたのだろうか、というのが質問だった。こちらでは、旅行から帰っても職場の同僚におみやげを渡すという習慣はない。従って、Please share it with everyone と言ったら、個人から個人への贈物と取られ、もしかしたらボスは家族と「シェア」したということは考えられないだろうか。しかし、こちらの人間に聞くと、「いや、それはきっと同僚が食べてはいるのだけれど、英語では後になって礼を言うことがないからなのでは?」という意見だった。という訳でいまだにあのおみやげの行方はわからぬままだ。
こんなに違うオーストラリアの慣習
結婚式の話で思い出したが、こちらでは冠婚葬祭のマナーが日本ほど厳しくない。結婚式に白いドレスで出席したり、葬式に赤やピンク、普段着のような服装で出ている人をテレビのニュースなどで見かける。どちらかというとあまりドレスアップしない国民である。お洒落なレストランに行ってもTシャツで座っている人がいたりする。BYOレストランと書いてあるとBring Your Own、つまり自分で飲むアルコールは自分で持って来いということだ。結婚式にはプレゼントを持参するのだが、最近日本のようにキャッシュを貰うほうが嬉しい、というカップルも出てきているとか先日新聞で読んだ。結婚費用は新婦側が負担するのが伝統。バレンタインデーはどちらかというと男から女へ贈物をしているようだし、母の日はカーネーションでなくなんと菊である。(日本なら縁起でもないと言われそうだ。)日本人の友達は「こっちの人ってよくゴミみたいなものを平気でくれる。」とこぼしていた。質より「気持ち」なのであろう。以上、これから豪州に行こうという方には知っておいて欲しいことだ。
【“こんなに違うオーストラリアの慣習”の続きを読む】
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ボディランゲージの罠
この結婚式(昨日のエントリー参照)には花嫁さんの親友も一緒に来ていた。なんと彼女、アメリカに住んでいたことがあり英語もわかるのだそうだ。適当な翻訳をした私はやっば〜!と思ったが、別にクレームは来なかった。とても気さくな女性だった。彼女自身、通訳を頼まれて失敗した経験があると言って話してくれた。
一つは、パーティー会場で。アメリカ人が日本人の身内に酒を勧めるので、彼女が「もう、いいよね?十分飲んだよね?」と言ったら、「うん」と頷いた。それを見ていたアメリカ人。頷いたからイエス、と解釈してドボドボお酒を注いでしまった。
もう一つは某アメリカ人を指して「この先生は△△の専門家で、大変詳しいので、これからよろしければ○○までお連れします、ということです。」と日本人に伝えると、日本人が「いやあ、そんなお忙しいのに、けっこうですよ。」と手を横に振った。それを聞いていた(というか「見ていた」)アメリカ人、「自分が専門家で知識豊富である」ことを否定されたのだと思いむっとしてしまったそうだ。
通訳というのは言葉だけでなく人の仕草にまで気を回さなきゃいけない仕事なんだなあと、実感した。
一つは、パーティー会場で。アメリカ人が日本人の身内に酒を勧めるので、彼女が「もう、いいよね?十分飲んだよね?」と言ったら、「うん」と頷いた。それを見ていたアメリカ人。頷いたからイエス、と解釈してドボドボお酒を注いでしまった。
もう一つは某アメリカ人を指して「この先生は△△の専門家で、大変詳しいので、これからよろしければ○○までお連れします、ということです。」と日本人に伝えると、日本人が「いやあ、そんなお忙しいのに、けっこうですよ。」と手を横に振った。それを聞いていた(というか「見ていた」)アメリカ人、「自分が専門家で知識豊富である」ことを否定されたのだと思いむっとしてしまったそうだ。
通訳というのは言葉だけでなく人の仕草にまで気を回さなきゃいけない仕事なんだなあと、実感した。
通訳の限界
もう随分昔のことになるが、ある人を通して豪州人と日本人の結婚式の通訳の仕事を頼まれたことがあった。私は頭の回転が鈍いので通訳は全く向いていない。新郎によるスピーチを、式に出席する日本人妻の家族の為に訳してほしいということだったので、前もってスピーチ原稿を貰えることを条件に承諾した。が、ファクスされてくるはずの原稿がいつまでたっても届かない。催促すると当日必ず式の前に渡すということになった。会場は市内の一流ホテル内。その広さからして数百人が招かれているようである。最終的に原稿を貰えたのはもう式直前で、私は裏部屋を借り、辞書を片手に必死の思いでなんとか仕上げた。訳し終わったのとほぼ同時に新郎の英語のスピーチが始まった。が、その内容を聞いて愕然とした。私にくれた原稿と全然違うのだ。驚くべきことに、一つも同じ文がない!どうしよう!パニックで頭がぐるぐるし始めた。が、それはともかくそのスピーチの長いこと、長いこと。しかも内容は新婦への賞賛に始まって、それが新郎自身の家族一人一人への賛辞、感謝の言葉へと続いた。客もいいかげんうんざりしていたのがわかった。そしてやっとスピーチが終わった時、私がステージに立つと「ああ、この長〜いスピーチを今度は日本語で聞かされるのか。」という招待客の消沈した気分が手に取るようにわかった。目が眩むようなライトが私に当たった。ビデオ係が二人もいた。私は用意していた、式の前に貰った原稿の訳をそのまま読み上げた。それは数分もしないうちに終わった。私がお辞儀をすると、皆が「え?もう終わったの?」という感じで安堵の拍手喝采が起こった。私はすまして舞台を降りた。だって、あんなに身内の者を褒めまくったスピーチをいくらなんでも訳せないではないですか。咄嗟に通訳できなかった私の不幸中の幸い・・格好な言い訳であった。
若者が実現する心の平和
先日の中級クラスの授業で靖国神社参拝のトピックが出た。韓国人の学生が「韓国では靖国神社の韓国人位牌の返還が問題になっていた。」と言うと、討論は戦時中まで遡っていった。中国人の学生・・「僕の祖父母は広東にいたんだけど日本兵が来る前に逃げたって言ってた。」そこで私、「じゃあおじいさん達はあなたが今、日本語を勉強していることについてどう思ってる?」「そりゃあいい顔はしてません。」もう一人の韓国人の学生「うちの祖母は慰安婦の話をしてくれた。やはり日本兵につかまったら慰安婦にされて殺されるから、逃げたらしい。」ここでオーストラリア人学生「でもさ、オーストラリア人だって戦時中はけっこうひどいことしてたんだよ。随分いろんな所で人を殺してたんだよ。」
戦争の話は日本人の私にとって居心地のいいものであるわけがない。が、学生たちは日本の過去を知りながらも日本語の勉強を選んでいる。若い世代の偏見のなさ、過去は過去、という割り切り。「平和」は、人間ひとりひとりの心に存在しない限り実現しない、という言葉を聞いたことがある。屈託ない学生の笑顔を見ていると、若い世代に平和の希望を持たされるのだ。
戦争の話は日本人の私にとって居心地のいいものであるわけがない。が、学生たちは日本の過去を知りながらも日本語の勉強を選んでいる。若い世代の偏見のなさ、過去は過去、という割り切り。「平和」は、人間ひとりひとりの心に存在しない限り実現しない、という言葉を聞いたことがある。屈託ない学生の笑顔を見ていると、若い世代に平和の希望を持たされるのだ。
日本語ダンスステップ
「ゴルフのほうはいかがですか、最近?先日は2位になったとか伺いましたが。」「いやあ、あれはもうマグレですよ、マグレ。ちょっと風の吹き具合がよかったのかもしれないだけで。」「そんなことないでしょう。もうプロ並みのトレーニングをなさってるとか、この前鈴木君もそう言って感心してましたよ。」「プロ並みだなんて、オーバーな。練習くらいは続けないとビリになってしまいますからね。まあストレス解消も兼ねて運動してるだけですよ。田中さんこそ、この間はハワイで好成績だったとか伺ってますが?」
日本語でよく聞くこのタイプの会話。ほめ言葉は大抵謙遜で否定される。そこでまた賛辞で追い討ちをかけるが今度も打ち消しで躱され、逆にこちらへ賛辞が戻ってきたりもする。褒め言葉にサンキュー、と答えて終わらせる英語圏の人間には奇妙に映る会話らしい。
私はこれをダンスステップに例えて生徒に教える。Aがワンステップ足を前に出しダンスパートナーBに近寄る。Bはそこでワンステップ後退して体をそらす。今度はBが前にステップを出す。Aもやはりそこで一歩後退する。これが賛辞のダンスステップである。今日もこれを言って実演していたら学生は一人で踊っている私を見て笑っていた。
日本語でよく聞くこのタイプの会話。ほめ言葉は大抵謙遜で否定される。そこでまた賛辞で追い討ちをかけるが今度も打ち消しで躱され、逆にこちらへ賛辞が戻ってきたりもする。褒め言葉にサンキュー、と答えて終わらせる英語圏の人間には奇妙に映る会話らしい。
私はこれをダンスステップに例えて生徒に教える。Aがワンステップ足を前に出しダンスパートナーBに近寄る。Bはそこでワンステップ後退して体をそらす。今度はBが前にステップを出す。Aもやはりそこで一歩後退する。これが賛辞のダンスステップである。今日もこれを言って実演していたら学生は一人で踊っている私を見て笑っていた。
ペラペラじゃあないけれど
今日の授業が終わった時、生徒のアンナが珍しく私の所にやってきた。「日本の人からこんなの、もらいました。」と英語で言う。見てみると「アンナさん、いつもおせわになっています。あなたのにほんごはほんとうにおじょうずです。これからもがんばってください。」・・そして女性の名前が綴ってあった。「友達なの?」「いえ、患者さん。」そうか、アンナは病院勤務の子だった。彼女は小柄で、日本の女の子のように見える、アジア系の可愛い顔をしているが、お世辞にも語学に才能があるとは言えない。発音も悪いし、記憶力も芳しくない。実は前回の試験も不合格だった。が、毎回必ずクラスには来ている。「こんにちは、って言ったらすごく喜んでくれたんです。だから時々、日本語で話してます。」「その患者さん、何歳ぐらいの人?」「う〜ん、70歳くらい。」「英語できるの?」「一応できるけど、あんまり上手じゃない。」シドニーで、70歳の日本人女性が入院している。どんな事情があるのだろうか。「私がね、この患者さんの名前を平仮名で書いてみせたら、すっごくびっくりしてた。」
異国の、コトバもろくに通じない所で病気になったこの人には、アンナの子供のような日本語でも十分に嬉しいに違いない。言葉って別にペラペラでなくても、役に立つことがあるんだな、と、アンナが不合格にもめげず勉強を続けてくれているのがなんだか嬉しかった。
異国の、コトバもろくに通じない所で病気になったこの人には、アンナの子供のような日本語でも十分に嬉しいに違いない。言葉って別にペラペラでなくても、役に立つことがあるんだな、と、アンナが不合格にもめげず勉強を続けてくれているのがなんだか嬉しかった。
こっそり入れてみた異文化ロールプレイ
今日のクラスで異文化ロールプレイをこっそり入れてみた。レベルは中級クラス。ちょうど敬語等もカバーしたところなので、二人のオーストラリア人が日本の会社を訪れて二人の日本人と交渉する場面、という設定にした。勿論ちゃんとスピーキングの練習にもなっているが、設定には異文化要素が含まれている。日本側は初めての面会なので、相手の会社について知ることがゴール。それ以上の話はする気がない。もしもっと込み入った話をされた場合は、「それはちょっと・・」とか「検討します。」等あいまいな返答をするように、又、視線も合わせないように、という指示が出してある。一方豪州側の二人は、今日日本市場での可能性を確認した上で販売ルートなどについて決め、オーストラリアの上司に報告することになっている。自分の会社がいかに有名かなども売り込まなくてはならない。さらに豪州側は女性と男性のペアであり、実は女性の方が肩書きが上という設定。勿論、相手の状況設定は各グループが知らないままロールプレイをする。
皆わいわいがやがや、日本人のアクセントまで真似て楽しそうにやっていたが、終わってから感想を聞くと、「日本側がいつもはっきりした答えを言わず、全然話にのってこないので頭に来た。」「どうしても自分の進めたい方向に持って行けなかった。」「製品の素晴らしさなどを売り込みたいけれど、あまり自慢っぽくならないようにするのが難しかった。」などと言っていた。こういった感情の体験は貴重だと思う。今日は十分な時間がなく、すべてのポイントをカバーできなかったが、機会を見て又続きをやってみよう。
皆わいわいがやがや、日本人のアクセントまで真似て楽しそうにやっていたが、終わってから感想を聞くと、「日本側がいつもはっきりした答えを言わず、全然話にのってこないので頭に来た。」「どうしても自分の進めたい方向に持って行けなかった。」「製品の素晴らしさなどを売り込みたいけれど、あまり自慢っぽくならないようにするのが難しかった。」などと言っていた。こういった感情の体験は貴重だと思う。今日は十分な時間がなく、すべてのポイントをカバーできなかったが、機会を見て又続きをやってみよう。
語学教育は平和教育
四年前のテロ事件から「第三次世界大戦」が始まっているのだという説がある。確かにそうかもしれない。私たちが知っている、過去に起きた戦争とは形が違うだけで、確かにあれ以来毎日のように死者、負傷者が出ているし、心の傷が直らないままの人も数多くいる。
平和に貢献する為に自分一人に一体何が出来るのか、と思うが、語学教師であるというのは既に平和教育にかかわっているということかもしれない。語学を教えていると、ある意味では自分が母国の「大使」になる。生徒が自分と母国をつなげて評価する可能性が高い。しかし何も大げさなことではないと思う。あの先生、好きだから、先生の国もいいとこだろう・・そんな単純なものかもしれない。私も一人イラン人の親友がいる。彼女に会うまではイランの人など一人も知らなかったし、イランというのはどんな国なのかもわかっていなかった。が、彼女と付き合うに連れて自然に色々なことを教えられた。そして彼女の思いやり、やさしい家族、はそのままイランの人のイメージとなっていった。たった一人を知っただけでその人の国全体を評価するなんて馬鹿げている。が、結局人間はそんなものなのかもしれない。逆に一人だけ嫌なイラン人を知っていたら、私のイランへのイメージは悪いものになったかもしれない。
昔、日本はオーストラリアにとって敵国であった。年配の方にはいまだに日本人に反感のある人も多い。そんな国で日本語を教えることが少しだけでも日本びいきを生むことにつながるのなら、日本語教師をやる価値は十分にあるだろう。
平和に貢献する為に自分一人に一体何が出来るのか、と思うが、語学教師であるというのは既に平和教育にかかわっているということかもしれない。語学を教えていると、ある意味では自分が母国の「大使」になる。生徒が自分と母国をつなげて評価する可能性が高い。しかし何も大げさなことではないと思う。あの先生、好きだから、先生の国もいいとこだろう・・そんな単純なものかもしれない。私も一人イラン人の親友がいる。彼女に会うまではイランの人など一人も知らなかったし、イランというのはどんな国なのかもわかっていなかった。が、彼女と付き合うに連れて自然に色々なことを教えられた。そして彼女の思いやり、やさしい家族、はそのままイランの人のイメージとなっていった。たった一人を知っただけでその人の国全体を評価するなんて馬鹿げている。が、結局人間はそんなものなのかもしれない。逆に一人だけ嫌なイラン人を知っていたら、私のイランへのイメージは悪いものになったかもしれない。
昔、日本はオーストラリアにとって敵国であった。年配の方にはいまだに日本人に反感のある人も多い。そんな国で日本語を教えることが少しだけでも日本びいきを生むことにつながるのなら、日本語教師をやる価値は十分にあるだろう。
忘れられないあの日の授業
2001年9月11日、幸か不幸か私は夜のテレビを見ることもなく、すやすやと眠っていた。テロ事件を知ったのは翌朝のニュースでだった。ワールドトレードセンターがまるで映画の演出か何かのように天から脆く崩れていくのを、何度も何度も信じられないまま見た。しかし、その日は朝9時からの講義が入っていたので慌てて家を出た。教室に入るまで、この事件について何か発言するべきかを考えていた。が、何も言えなかった。中近東からの学生も多いそのクラス。アフガニスタン人も入っていた。事件について話す学生はいなかった。もしかしたらまだ知らないのだろうか。ぎりぎりまで寝坊してニュースも見ずに駆けつけてきたとか?まさか・・。そんなことを考えていると、外で消防車のサイレンが鳴った。その一瞬クラス全体がびくっとしたのを感じた。皆がいっせいに大通りのある方を向いたのだ。普段ならサイレンなんて気にとめることもないのに。みんな若い。やはり敏感なのだ。教室の空気に恐怖が淀んでいた。事件について何も言わないことがいいのか悪いのか、悩んでいるうちにクラスは終わってしまった。あれから四年が経った。
直接的、間接的、どちらが効果的?
このLanguage & Culture Course (昨日のエントリー参照)で見せた異文化コミュニケーションのビデオに、上司が部下とコミュニケーションをとるというロールプレイが入っていた。上司は、ある部下に、彼女が原因でチーム全体の業績が落ちたことを指摘しようとする。第一ロールプレイでは、上司が西洋的(?)なダイレクトなアプローチをとる。第二ロールプレイでは、上司がアジア的(?)な間接的な話し方をする。日本人の私が見ると、第二ロールプレイでは、上司が部下の感情を傷つけまいとして婉曲的にコミュニケーションをしているのが明瞭だ。しかし、ロールプレイで「部下」を演じた西洋人の感想は、「一体何を言われているのかわからなかった。チーム全体の話なのか、私のことなのか、それとももっともっと大きい何かが悪化しているんだか。本当にイライラした。はっきり言ってよ、と言いたくなった。」
こちらがよかれ、と思って遠回しに言っていても、こんな思わぬ反応がありえるわけだ。いくら言葉が出来ても、アプローチがその国の文化に対応していないと思い通りのコミュニケーションが成立しないという例であろう。何でも核心は避けて言わず、ほのめかすことが得意な日本人は特に気をつけなくてはならない。
ps 「西洋的」「アジア的」というのは随分固定観念にはまっている気がするので一応 「?」印をつけておきます。
こちらがよかれ、と思って遠回しに言っていても、こんな思わぬ反応がありえるわけだ。いくら言葉が出来ても、アプローチがその国の文化に対応していないと思い通りのコミュニケーションが成立しないという例であろう。何でも核心は避けて言わず、ほのめかすことが得意な日本人は特に気をつけなくてはならない。
ps 「西洋的」「アジア的」というのは随分固定観念にはまっている気がするので一応 「?」印をつけておきます。
本当のLanguage & Culture Course
過去に一度だけ、言語と文化を本当に半々で教えていい、という仕事を貰ったことがある。某日本企業の社員達が相手だった。異文化ジャンキーの私が燃えたのは言うまでもない。コトバの方は初心者だから挨拶や数、などをゆっくり教えるだけ。後は文化の違いによる誤解やトラブルをケーススタディにして、ディスカッション・グループやロールプレイを(正々堂々と?)行うことが出来た。毎日日本人とビジネスをしている人達が相手なので討論も盛り上がった。皆それぞれ、「どうして日本人って・・」という疑問がたまっていたようである。ある年配社員のコメントはまだ私の心に残っている。「今日、ここで習ったことは、実は私が何年も、苦い思いや失敗を繰り返してやっとわかったことです。」例えば日本人が「難しい」という時、それは却下同然であることや、イエスが同意ではないということや・・。
私は日本企業で正社員として働いたことはないし、あったとしても女である以上、根回しだとか接待だとかについては経験が得られないだろう。そういう意味ではかなり限界を感じていたのだが、幸いコースの評判はすこぶる良かった。最初のコースが終わった時、次のコースはコミュニケーションを主体にしてくれ、とさえ言われた。そして私も数々の実例を生徒から聞くことができ、非常に勉強になった。生徒達は「日本人社員も同じようなコースをするべきだと思う。きっと僕たちがしていたような誤解があると思うから。」という感想をくれた。全く同感だ。異文化コミュニケーションは双方が努力してこそ初めて最大限のパワーを発揮するものだろう。日本企業の経営陣にも是非ご検討頂きたいことだ。
私は日本企業で正社員として働いたことはないし、あったとしても女である以上、根回しだとか接待だとかについては経験が得られないだろう。そういう意味ではかなり限界を感じていたのだが、幸いコースの評判はすこぶる良かった。最初のコースが終わった時、次のコースはコミュニケーションを主体にしてくれ、とさえ言われた。そして私も数々の実例を生徒から聞くことができ、非常に勉強になった。生徒達は「日本人社員も同じようなコースをするべきだと思う。きっと僕たちがしていたような誤解があると思うから。」という感想をくれた。全く同感だ。異文化コミュニケーションは双方が努力してこそ初めて最大限のパワーを発揮するものだろう。日本企業の経営陣にも是非ご検討頂きたいことだ。
豆知識が防ぐ異文化トラブル
昨日書き出したことは、異文化教育のビギナーコースみたいなもので、文化という大げさな言葉を使うよりは習慣、マナーのようなことが中心である。これだけが異文化コミュニケーションの教育と思われては困るが、しかし先生がこういったことにちょっと一言添えてやることで、不要なカルチャーショックやトラブルが避けられるということには変わりない。
こちらの日本語新聞で、シドニーの電車に乗った日本人が乗っている間に気が変わり、乗り越して後で精算しようと思ったところ、オーストラリアではそのようなシステムがない為罰金を払えと言われた事件について記事があった。最悪の場合は裁判沙汰になりかねない、というような話だった。もし誰かがこの人に、「シドニーでは乗り越した場合精算するというシステムがないんですよ。」と教えてあげていたら避けられたはずの事件だ。ちょっとした豆知識でも役に立つのだ。生徒に、できるだけのことを教えておいて損はないだろう。
こちらの日本語新聞で、シドニーの電車に乗った日本人が乗っている間に気が変わり、乗り越して後で精算しようと思ったところ、オーストラリアではそのようなシステムがない為罰金を払えと言われた事件について記事があった。最悪の場合は裁判沙汰になりかねない、というような話だった。もし誰かがこの人に、「シドニーでは乗り越した場合精算するというシステムがないんですよ。」と教えてあげていたら避けられたはずの事件だ。ちょっとした豆知識でも役に立つのだ。生徒に、できるだけのことを教えておいて損はないだろう。
異文化教育を(こっそり)クラスに取り入れる法(パート2)
昨日に引き続き・・ではいつ、どんな異文化トピックを入れることが出来るか、ちょっと思いつくまま書き出してみよう。
1
数を教える時、「好まれる数」「縁起の悪い数」なども教える。特にホテル業の生徒ならば、日本人客に「429号室」などは避けたほうが無難、といったことを教えておく。
2
「はい」と「いいえ」の使い方。英語と逆になる事がある。又、「はい」は同意とは限らない。
3
日本人の家を訪問、のトピックの時。手みやげ、和室での座り方(男女の差)、引き止められた時真に受けて長居しないこと、勝手に台所に入らない、帰りは数回振り返ってお辞儀、又は手を振る。(オーストラリアでこれをするともうドアはバタンと閉まっている。寂しい・・。)ホテル等に戻ったら無事着いたとお礼の電話を入れる
4
交通機関の名称を教える時
タクシー 自分でドアを開けない。
電車
携帯を使わない。ホームで並んで待つ。女性専用車の時間帯があるかもしれない。精算機とは何か。
5
食事のトピックの時 箸の使い方のマナー、日本人は食べる時に音をたてる
6
「あげます」「もらいます」を教える時 贈物のマナー、貰ってすぐに開けないこともある、「お返し」の習慣、贈らないほうがいい物
7
家族の名称を教える時
妻が夫を「お父さん」、父が娘を「おねえちゃん」など一番小さい子供に合わせた呼び方をすることも加える
8
日本の住宅のトピックの時
トイレ(和式のとモダンなタイプ)、風呂の使い方(家族が同じ湯を使うこと、シャワーよりお風呂) ゴミの出し方
9
買物 どんなサービスがあるか(裾あげ、保冷剤など)
以上、異文化コミュニケーションというよりは、ちょっと知っているといい、くらいのトピックだが、トラブル防止になるものもあるだろう。もっと沢山ありそうだけれど、今日は疲れた。お休みなさい!!
1
数を教える時、「好まれる数」「縁起の悪い数」なども教える。特にホテル業の生徒ならば、日本人客に「429号室」などは避けたほうが無難、といったことを教えておく。
2
「はい」と「いいえ」の使い方。英語と逆になる事がある。又、「はい」は同意とは限らない。
3
日本人の家を訪問、のトピックの時。手みやげ、和室での座り方(男女の差)、引き止められた時真に受けて長居しないこと、勝手に台所に入らない、帰りは数回振り返ってお辞儀、又は手を振る。(オーストラリアでこれをするともうドアはバタンと閉まっている。寂しい・・。)ホテル等に戻ったら無事着いたとお礼の電話を入れる
4
交通機関の名称を教える時
タクシー 自分でドアを開けない。
電車
携帯を使わない。ホームで並んで待つ。女性専用車の時間帯があるかもしれない。精算機とは何か。
5
食事のトピックの時 箸の使い方のマナー、日本人は食べる時に音をたてる
6
「あげます」「もらいます」を教える時 贈物のマナー、貰ってすぐに開けないこともある、「お返し」の習慣、贈らないほうがいい物
7
家族の名称を教える時
妻が夫を「お父さん」、父が娘を「おねえちゃん」など一番小さい子供に合わせた呼び方をすることも加える
8
日本の住宅のトピックの時
トイレ(和式のとモダンなタイプ)、風呂の使い方(家族が同じ湯を使うこと、シャワーよりお風呂) ゴミの出し方
9
買物 どんなサービスがあるか(裾あげ、保冷剤など)
以上、異文化コミュニケーションというよりは、ちょっと知っているといい、くらいのトピックだが、トラブル防止になるものもあるだろう。もっと沢山ありそうだけれど、今日は疲れた。お休みなさい!!
異文化教育を(こっそり)クラスに取り入れる法
前にも書いたように、残念ながら異文化教育は日本語のカリキュラムにかなり無視されている。しかしこれは日本語教師の志一つで随分改善できることかもしれない。とにかく、外国人が知っていなくてはならないような日本的コミュニケーション、又は起きかねないトラブル、その解決法などを言語トピックに関連づけて教えるようにすればよい。例えば「コーヒーはいかがですか。」等飲み物のすすめ方を教えている時にすかさず「日本では、お客さんは遠慮して最初は『いいえ、けっこうです。』とか『どうぞおかまいなく。』などと断ることも多いです。だから、あなたがすすめる側だったら、もう1、2回はすすめることが大事なんですよ。」といった話を入れる。これはほんの1分もあれば話せることだ。私は出来るだけ自分や他人の失敗談を笑い話にして聞かせることにしている。生徒達はこういう話はけっこう興味深く聞いてくれるものだし、言葉の練習に疲れた時のちょっとした息抜きにもなる。
私のような異文化ジャンキーだともっと異文化コミュニケーションに時間を費やしたいこともある。それなら、コース全体の教案をもう一度見直してみよう。そこに書いてあることは本当に全部やらなきゃいけないことだろうか。本当は自分はあまりしたくないこと、賛成できないことも入っていないだろうか。先生自身がしたくないことを嫌々やっていてもあまり学習効果は期待できない。試験内容に関係ないのなら、ばれない程度にある程度削って、自分が重要だと思う異文化教育事項を入れてみたらどうだろう。日本語教師の第一の目的は生徒にとって役に立つことを教えることだ。職場の誰々さんを喜ばすことではない。私のような中年になるとここまで開き直れるのである。(しかしこれ、同僚が読んでいないことを祈る!!笑)
私のような異文化ジャンキーだともっと異文化コミュニケーションに時間を費やしたいこともある。それなら、コース全体の教案をもう一度見直してみよう。そこに書いてあることは本当に全部やらなきゃいけないことだろうか。本当は自分はあまりしたくないこと、賛成できないことも入っていないだろうか。先生自身がしたくないことを嫌々やっていてもあまり学習効果は期待できない。試験内容に関係ないのなら、ばれない程度にある程度削って、自分が重要だと思う異文化教育事項を入れてみたらどうだろう。日本語教師の第一の目的は生徒にとって役に立つことを教えることだ。職場の誰々さんを喜ばすことではない。私のような中年になるとここまで開き直れるのである。(しかしこれ、同僚が読んでいないことを祈る!!笑)
ナイフとフォークで食べる和食
例えば5人の日本人と2人のオーストラリア人が集まる時。もしこのオーストラリア人が英語しかわからない人達で、日本人が皆英語が出来る人の場合、当然会話はすべて英語になる。まあ仕事などならそれでもかまわない。しかし、パーティーとか、会話を楽しむべきである時に、これがあると、私はいつも御馳走があったのにお腹が空いたままで家に帰るような気がしてしまうのだ。日本人が皆英語で全く問題なくコミュニケーション出来る人達でも、日本語で話す機会がないままだと、本当に話した気がしない。日本語だったらもっともっと楽しかっただろうに、と思ってしまう。人に聞いてみたことはないのだが、これは私だけですか?
さて、話はちょっと脱線するが今まで働いた学校では、大抵海外からの留学生が半数以上を占めていたので、学校側は「校内では英語しか話してはいけない」という規則を強制していた。それは目の前でにやにや外国語で話されたりしたら、「自分の悪口を言われてるのでは?」と誰でも嫌な気がするのはわかる。しかし、これはいかにも英語圏の人間が考えついたルールという気もする。なぜなら英語では日本語(だけに限らないが)のような人間関係による話し方の調整が殆どない。私は自分より目上の日本人と英語で話さなければならないと言われると、どうもおかしな気分になる。英語のような「平等」な語りでは、失礼な気がしてたまらない。目上の人に向かってyouと呼ぶのもしっくりこない。日本語では敬語や「ですます調」または友達コトバで、人間関係及び心理的距離を調整している。ヨーロッパの言葉にも、丁寧なYouとくだけたYouがあることが多い。それを一切無視して英語で話せと言われると、おいしい和食を目の前にしてナイフとフォークで食べろ、と言われているような気がする。お箸ならもっとうまく使えるのに、もっとおいしく味わえるのに、という欲求不満がたまってしまう。これは英語パーティーの後のあの気分と似ている。
さて、話はちょっと脱線するが今まで働いた学校では、大抵海外からの留学生が半数以上を占めていたので、学校側は「校内では英語しか話してはいけない」という規則を強制していた。それは目の前でにやにや外国語で話されたりしたら、「自分の悪口を言われてるのでは?」と誰でも嫌な気がするのはわかる。しかし、これはいかにも英語圏の人間が考えついたルールという気もする。なぜなら英語では日本語(だけに限らないが)のような人間関係による話し方の調整が殆どない。私は自分より目上の日本人と英語で話さなければならないと言われると、どうもおかしな気分になる。英語のような「平等」な語りでは、失礼な気がしてたまらない。目上の人に向かってyouと呼ぶのもしっくりこない。日本語では敬語や「ですます調」または友達コトバで、人間関係及び心理的距離を調整している。ヨーロッパの言葉にも、丁寧なYouとくだけたYouがあることが多い。それを一切無視して英語で話せと言われると、おいしい和食を目の前にしてナイフとフォークで食べろ、と言われているような気がする。お箸ならもっとうまく使えるのに、もっとおいしく味わえるのに、という欲求不満がたまってしまう。これは英語パーティーの後のあの気分と似ている。
聞いていいこと、いけないこと
久しぶりの雨。そしてこちらは今日が父の日(英国式)。
先日、日本で英語を教えていたという生徒(女性)が、日本では必ず、初対面でも年齢を聞かれた、と驚いていた。英語圏では、これは失礼なことである。日本ではどうして聞くのだろうか。一つ、本で読んだことのある理由は、「日本では英語の授業で必ずハウオールドアーユー?と習う。突然外人と話すことになってパニックしている時、ついこういった基本的なフレーズが思い浮かび聞いてしまう。」なるほどね。それはあるかもしれない。しかし日本人同士でも年齢を聞くことはよくある。これは、年齢を知らぬままでは適切な話し方がわからないということもあるだろうし、年齢を聞くことで次の話のきっかけにすることもあるだろう。(例「あら、30歳。じゃあ、もうそろそろお嫁さんを探さないとね。」)
家族について聞くことも、英語圏では詮索ととられるが、日本では当然だ。「お父さんは何していらっしゃるの?」「ご兄弟は?」そう言えば英語で、兄弟について話す時、通常brother, sister が使われ、兄か弟か、姉か妹か、までわからないことが多い。うちの父曰く「それでは、(その人の)イメージが湧かない。」そうである。「お兄さんが三人もいるの!じゃあ女の子一人で可愛がられて育ったんだろうな。」このようなことを想像しつつその人に接するのだと言うのである。
さて、教材の一つに「日本人がよくするが、外国人には嫌がられること」と題して、上のようなトピックと共に「バストサイズを聞くこと」というのが挙げられていた。え!まさか!と思ったので「こんな質問は滅多にないと思います。」と授業中、つけ加えたところ、一人の女生徒が言った。「そんなことありません。実際私は日本でこの質問をされました。」一瞬、言葉を失った。酒に酔ってでのことだろうか。シラフでそんなことを聞く人間がいるのだろうか。こんな時、私は日本人男性の「カルチャー」を疑ってしまうのである。
先日、日本で英語を教えていたという生徒(女性)が、日本では必ず、初対面でも年齢を聞かれた、と驚いていた。英語圏では、これは失礼なことである。日本ではどうして聞くのだろうか。一つ、本で読んだことのある理由は、「日本では英語の授業で必ずハウオールドアーユー?と習う。突然外人と話すことになってパニックしている時、ついこういった基本的なフレーズが思い浮かび聞いてしまう。」なるほどね。それはあるかもしれない。しかし日本人同士でも年齢を聞くことはよくある。これは、年齢を知らぬままでは適切な話し方がわからないということもあるだろうし、年齢を聞くことで次の話のきっかけにすることもあるだろう。(例「あら、30歳。じゃあ、もうそろそろお嫁さんを探さないとね。」)
家族について聞くことも、英語圏では詮索ととられるが、日本では当然だ。「お父さんは何していらっしゃるの?」「ご兄弟は?」そう言えば英語で、兄弟について話す時、通常brother, sister が使われ、兄か弟か、姉か妹か、までわからないことが多い。うちの父曰く「それでは、(その人の)イメージが湧かない。」そうである。「お兄さんが三人もいるの!じゃあ女の子一人で可愛がられて育ったんだろうな。」このようなことを想像しつつその人に接するのだと言うのである。
さて、教材の一つに「日本人がよくするが、外国人には嫌がられること」と題して、上のようなトピックと共に「バストサイズを聞くこと」というのが挙げられていた。え!まさか!と思ったので「こんな質問は滅多にないと思います。」と授業中、つけ加えたところ、一人の女生徒が言った。「そんなことありません。実際私は日本でこの質問をされました。」一瞬、言葉を失った。酒に酔ってでのことだろうか。シラフでそんなことを聞く人間がいるのだろうか。こんな時、私は日本人男性の「カルチャー」を疑ってしまうのである。
できない生徒の奇跡
中国語がわかる生徒は漢字に慣れているせいか、平仮名・片仮名の習得に苦労する人は殆どいない。しかし、「殆ど」というところにご注目。中国語がわかるのに西洋人にも負けてしまうような人がたま〜にいる。一人は家庭教師で教えに行っていた高校生だった。カードを使って必死に教えたのだが、まったく憶えてくれない。何週間、何ヶ月やっても進歩はあるのかないのかわからないほどだった。しかし、「ある日」行ってみると、彼はほぼ全部が読めるようになっていた。どうしたの?どうやって憶えたの?と聞いても特にはっきりした答えはなかった。とにかくその後、彼の学校での日本語の成績は急上昇した。
もう一人は成人の男性。彼も平仮名がお手上げだった。家でも勉強しなきゃ憶えられませんよ、とアドバイスすると、勉強はしている、と言った。が、授業中見ているとどうも努力が感じられない。もうこの人はいずれ落ちこぼれるのでは、と思っていた。ところが又、「ある日」彼は急激に読めるようになった。どうしてなのかはわからない。今は片仮名もどんどん憶え、人が変わったように、自信に溢れた態度である。
二つとも不思議な事件だった。他の誰かに習った、ということはないと言える。ただ、ある程度の時間が経過した時に、湯が沸騰するかのように「理解」又は「記憶」のポイントに達したのだろう。どんなに出来ない生徒でも匙を投げてはいけないと思った。要は時間を与えることだけなのかもしれない。
もう一人は成人の男性。彼も平仮名がお手上げだった。家でも勉強しなきゃ憶えられませんよ、とアドバイスすると、勉強はしている、と言った。が、授業中見ているとどうも努力が感じられない。もうこの人はいずれ落ちこぼれるのでは、と思っていた。ところが又、「ある日」彼は急激に読めるようになった。どうしてなのかはわからない。今は片仮名もどんどん憶え、人が変わったように、自信に溢れた態度である。
二つとも不思議な事件だった。他の誰かに習った、ということはないと言える。ただ、ある程度の時間が経過した時に、湯が沸騰するかのように「理解」又は「記憶」のポイントに達したのだろう。どんなに出来ない生徒でも匙を投げてはいけないと思った。要は時間を与えることだけなのかもしれない。
「いい先生」の想い出
ちょっと子供の頃を振り返って頂きたい。あなたの心に今も残る「いい先生」とはどんな先生だっただろうか。私の場合、小学校2年生の時のK先生。まだ若い女の先生だったが、日曜日にクラスの皆を自宅に招待してくれた。K先生のうちは随分電車に乗って行った所で田舎といってもよいほどだった。そこでツクシを摘んだりして楽しいひと時を過ごしたのを覚えている。4年生の時はT先生。この男の先生は、大人しかった私をわざと学級委員に指名して、もっと積極的になってごらん、と後押しをしてくれた先生だった。いじめなどには徹底的な対策をとった方だった。それと6年生の時のS先生は音楽の先生。この先生が時々してくれる怪談は、皆わくわく、ゾクゾクして待ったものだった。又、私のオルガンの弾き方にぱっと目をとめ、皆の前で褒めてくれたりもした。
こう考えてみると今私の心に残る「いい先生」は共通点を言うなら、どこか「人間味」があった人達なのではなかろうか。偉そうにせず、心から生徒を思ってくれていた。
不思議なことに「あの先生のあの授業の教え方がうまかった。」などという想い出はあまりない。
今、大成功しているビジネスマンや有名人にインタビューをすると、各人必ず一人は「自分を変えてくれた」先生を挙げることが出来るようである。どんな落ちこぼれでも、わんぱく小僧でも、見捨てずに何かを教えてくれた先生がいた。教育業の一番の報酬は、そんな先生として憶えてもらえることかもしれない。
こう考えてみると今私の心に残る「いい先生」は共通点を言うなら、どこか「人間味」があった人達なのではなかろうか。偉そうにせず、心から生徒を思ってくれていた。
不思議なことに「あの先生のあの授業の教え方がうまかった。」などという想い出はあまりない。
今、大成功しているビジネスマンや有名人にインタビューをすると、各人必ず一人は「自分を変えてくれた」先生を挙げることが出来るようである。どんな落ちこぼれでも、わんぱく小僧でも、見捨てずに何かを教えてくれた先生がいた。教育業の一番の報酬は、そんな先生として憶えてもらえることかもしれない。
日本語教師の「ハート」の部分
今日は九月一日。こちらでは「九月一日です。今日から春です!!」とニュースキャスターを始め、皆がそう言うのだ。まだ北風が吹いていても、ブルブル震えてても・・。これに驚いたのは日本人の私だけでなく、アフリカ、ガーナ出身の人も同じように驚嘆していた。時間についての捉え方の違いは、異文化トピックの一つであるが、それはちょっと後回しにして今日は少し前回の記事についてつけ足したい。
養成講座などで日本語教育法を習う時、あなたは自分が将来教えるであろう生徒について想像したことがある(あった)だろうか。生徒の国籍、性別、年齢、性格や学習態度など。なんとなく「真面目でやる気満々のいいクラス」を想定していなかっただろうか。
前回、養成講座の第一ステップが「日本語を客観的に見つめるようにさせること」、第二ステップが「日本語を外国語として教えられる技術を身につけること」ではないかと書いた。もう一つ、第三ステップがあっていいと思う。それは様々な生徒にどうやって教え、付き合っていくか、という現実的なことだ。実際、オーストラリアのような多文化な国で教えると、クラスに何カ国もの人種が混ざりあっているのが通常である。皆それぞれに異なった学習態度を持っている。年齢も「成人」クラスなら20歳前後から70歳以上まで一緒に座っていることがある。又、常にやる気のある生徒に当たるわけでもない。なんでこの人達は日本語が習いたいんだろう、どうして毎回遅刻してくるんだろう、なぜ指示に従ってくれないんだろう…そういった疑問や不満をハートを持って解決していくことが日本語教師業には必要だし、またそれは教師自身の成長の糧であると思う。が、この「第三ステップ」に無防備なまま教え始めると問題ばかりが蓄積し、仕事が嫌になるかもしれない。
今、教えているクラスに若いオーストラリア人男性がいる。彼は二学期からクラスに入ったのだが、高校で二年間、しかも受験スタイルでみっちりやっているので、他の生徒よりもずっと出来る。が、若さゆえの未熟さで、私の質問にいつも一番にさっと答えてしまい、クラスはシラケてしまう。はっきり言って迷惑だった。数週間にわたって私は段々彼の存在がうっとうしくなってきていた。が、先日授業の後で幸い一対一で話す機会があった。「僕、高校では別に日本語とりたくてとった訳じゃないんだ。化学か日本語かの選択で、仕方なく日本語にした。ところがやってみたらすごく面白かったんだ。僕は勉強そんなに出来るほうじゃないのになぜか日本語だけは出来ることがわかった。で、一番好きな教科になったから必死になって勉強して、成績もよくなった。だから来年は大学に入って日本語をとるのが僕の計画。」これを聞いて私は急に彼を理解できたような気がした。つまり彼にとって日本語は、初めて自身に発見した才能だったのだろう。日本語の勉強が彼の人生を変えた、と言ってもいいのかもしれない。そんな彼をうっとうしく思ったりしては可哀想ではないか。授業中つい気合いが入りすぎて即座に答えてしまうのもこれで納得がいった。しばらく聞いてから私は「ねえ、○○君、やっぱりあなたは皆より学習歴が長いし、このクラスはちょっと簡単すぎることもあると思う。でも一つお願いがあるの。私が質問する時、少しだけ他のみんなに時間をあげてくれない?あなたがいつも先に正解を言っちゃうと、もう考えようとしなくなっちゃうから。」彼はハッとしたような顔をして、「わかりました。気がつきませんでした。ごめんなさい。」と言った。第三ステップに心と心のコミュニケーションは欠かせない。
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養成講座などで日本語教育法を習う時、あなたは自分が将来教えるであろう生徒について想像したことがある(あった)だろうか。生徒の国籍、性別、年齢、性格や学習態度など。なんとなく「真面目でやる気満々のいいクラス」を想定していなかっただろうか。
前回、養成講座の第一ステップが「日本語を客観的に見つめるようにさせること」、第二ステップが「日本語を外国語として教えられる技術を身につけること」ではないかと書いた。もう一つ、第三ステップがあっていいと思う。それは様々な生徒にどうやって教え、付き合っていくか、という現実的なことだ。実際、オーストラリアのような多文化な国で教えると、クラスに何カ国もの人種が混ざりあっているのが通常である。皆それぞれに異なった学習態度を持っている。年齢も「成人」クラスなら20歳前後から70歳以上まで一緒に座っていることがある。又、常にやる気のある生徒に当たるわけでもない。なんでこの人達は日本語が習いたいんだろう、どうして毎回遅刻してくるんだろう、なぜ指示に従ってくれないんだろう…そういった疑問や不満をハートを持って解決していくことが日本語教師業には必要だし、またそれは教師自身の成長の糧であると思う。が、この「第三ステップ」に無防備なまま教え始めると問題ばかりが蓄積し、仕事が嫌になるかもしれない。
今、教えているクラスに若いオーストラリア人男性がいる。彼は二学期からクラスに入ったのだが、高校で二年間、しかも受験スタイルでみっちりやっているので、他の生徒よりもずっと出来る。が、若さゆえの未熟さで、私の質問にいつも一番にさっと答えてしまい、クラスはシラケてしまう。はっきり言って迷惑だった。数週間にわたって私は段々彼の存在がうっとうしくなってきていた。が、先日授業の後で幸い一対一で話す機会があった。「僕、高校では別に日本語とりたくてとった訳じゃないんだ。化学か日本語かの選択で、仕方なく日本語にした。ところがやってみたらすごく面白かったんだ。僕は勉強そんなに出来るほうじゃないのになぜか日本語だけは出来ることがわかった。で、一番好きな教科になったから必死になって勉強して、成績もよくなった。だから来年は大学に入って日本語をとるのが僕の計画。」これを聞いて私は急に彼を理解できたような気がした。つまり彼にとって日本語は、初めて自身に発見した才能だったのだろう。日本語の勉強が彼の人生を変えた、と言ってもいいのかもしれない。そんな彼をうっとうしく思ったりしては可哀想ではないか。授業中つい気合いが入りすぎて即座に答えてしまうのもこれで納得がいった。しばらく聞いてから私は「ねえ、○○君、やっぱりあなたは皆より学習歴が長いし、このクラスはちょっと簡単すぎることもあると思う。でも一つお願いがあるの。私が質問する時、少しだけ他のみんなに時間をあげてくれない?あなたがいつも先に正解を言っちゃうと、もう考えようとしなくなっちゃうから。」彼はハッとしたような顔をして、「わかりました。気がつきませんでした。ごめんなさい。」と言った。第三ステップに心と心のコミュニケーションは欠かせない。
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