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著書「日本語教師の卵に贈る 海外での日本語の教え方 裏ワザ集」(電子本-でじたる書房で発売中!
これから海外で教える方必読!E-bookなのでダウンロードしてすぐに読めます!


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平(たいら)和(かず)

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「いい先生」って何だろう?

日本語教師検定につい批判的になってしまうのは、自分では受かるはずがない、というひがみもあるが(!)なんだかそれが今養成コースの一番の、又は唯一の目標になっているような気がしてしまうからだ。そもそも教師養成講座というのは、一体何の為にあるのだろう。おそらく第一のステップは、参加者を「無意識に日本語を話している日本人」から「意識的に日本語を見つめる日本人」に変えること。第二ステップは「自分が自然に、ほとんど苦労せず身につけた言語を、外国人にどのように教えるか」を学ぶこと。
ここで文法やら音声やら難しいことを色々習う。その延長、というかその学習の証明として検定試験が待っている。しかし、この試験に限らずどんな資格試験もビジネスであるということは否めない。難しい試験がある。皆が受かろうと必死になる。受験コースができる。参考書が売れる。

  何か一つ欠落しているような気がする。それは「いい先生」の資質を身につけることを忘れていませんか、ということ。「いい先生」ってどんな先生かをじっくり考えたり、又はどうやったらなれるかを、養成学校は教えているのであろうか。「いい日本語教師」とはただ文法を要領よく教えられる人なのか。そういう疑問から本を書いてみたのだが、一冊似たような趣旨の本を見つけた。日本語教師必携ハート&テクニックには、現場で遭遇するリアルな問題や日本語教師自らの成長、学習者とのコミュニケーションなど、実例も多く共感できるものが多い。この本の題にあるように、「ハート」と「テクニック」が揃って初めて優れた教師の基盤ができると思うのだ。

著書日本語教師の卵に贈る 海外での日本語の教え方 裏ワザ集 オーストラリア発信!でじたる書房にて発売中!

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日本語教師能力検定試験

  今日は日本語教師能力検定試験について一言。この試験、ものすごく難しいそうだ。そして日本国内ではこれに受かっていないとなかなか仕事がない、という話も耳にした。私は受けたことがない。受けたら勿論落ちるだろう(笑)。しかし私はこちらで、この試験の合格者であることが応募条件になっている求人広告は過去に一度しか見たことがない。通常は、持っていなくても全く問題にならない。大体豪州で教えているベテランの先生は、この試験が出来る前からこちらで教えている方が多いはずだ。人選の際、自分が持っていないものを重視するわけがないだろう。

  学習者にも日本語能力試験がある。資格試験というのは人にやる気と目標を与えてくれる。それはいいことだ。しかし排他的な面があるのも確かだ。「これを持っているといい」、ではなくて、「持っていないといけない」、果ては「持っていない人はダメだ」。

  過信も気をつけなくてはいけない。「受かったから教えられる。」「受かったから必要なことはすべてマスターしたはずだ。」「受かったから仕事はあるはずだ。」

  日本での常識は海外で通用しない。「東大を出てます。」と言っても、こちらでは特に意味はない。海外では一からスタートする覚悟で来たほうが無難だ。

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日本語教師の収入

   異文化トピックからちょっと休憩しようか。日本語教師の収入について知りたい方がいるようなので、今日はそれについて話そう。相場というと、人に聞いた話も入っているが、大学で時給80−100ドル(現在1豪ドルは85円くらいなので、約6800円〜8500円程)、専門学校で50−65ドル(4200〜5500円)、コミュニティーカレッジで40ドル(3400円)くらいのようだ。プライベートだとまあ15ドルから50ドル(1200〜4250円)くらいまで幅がある。(以上シドニーでの話。シドニーは一番物価が高い都市であり、他の都市や州では異なるかもしれない。)常勤講師になれれば、少なくとも年俸4〜6万ドル(三百四十万〜五百万円)くらいは貰えるだろうが、現在それは狭き門だ。(というか、求人自体がほとんどない。)

けっこういい、と思われる方もいるかもしれない。が、非常勤の場合、一年52週間のうち、実際教えられるのは通常約26〜36週間。なので年間平均を出すと急に半分近くまで下がる。それに、オフィスワークと違って、毎日九時から五時まで教えるわけではない。一日二時間から、多くても六時間だろう。そして勿論授業準備、採点、生徒からの問い合わせへの対応など授業時間外の労働がある。

なんとか生計を立てるには数カ所でフリーランスをすることになる。これは一長一短で、まあ掛け持ちをしている限り完全失業は避けられる。それと「どこにいっても上の人間(教えていない人達)というのは現場のことがよくわかっていないんだなあ。」といった悟り(?)が開け、受容する気持ちが出てくる(苦笑)。しかし憂鬱なことも多い。例えばオフィスごとのゴシップに巻き込まれるので、各職場の誰かから「ちょっと〜!聞いてよ〜!どう思う〜??」などと毎日のように電話がかかってくるのは非常に疲れる。又給料や年金に関する手続きも、すべてが職場の数だけ繰り返される。学期の始めはスケジュールの調整がある。貰えそうなクラスをすべてスケジュールに収めるのは一苦労だ。クラスがあるかないかはぎりぎりまでわからず、例え一度始まっても生徒の欠席が増えてくるとキャンセルされたりもするので常にハラハラドキドキして過ごす。収入は毎年増えたり減ったりするので、銀行からお金を借りようとしてもなかなか難しい。あ〜、こう書いてみると経済面ではやっぱり短所のほうがずっと多い!これから日本語教師を目指す方は、覚悟なされ。

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Yes or No 練習問題

「イエス・ノー」が起こす混乱はうちの弟が我が家に滞在した時頻繁に起こった。日本語ゼロの夫と英語ごく少々の弟がコミュニケーションをとろうとしたからだ。一度弟が私の車を借りて出かけていった時、夫は弟が慣れない外国で運転することに気を揉んでいた。弟が戻るなり、"You didn't have any accident, did you?" と問うと、弟はにっこり笑ってイエ〜ス!!夫はもうパニックモードだ。
 
  さて、弟は英語はできないが料理はなんとか出来る。夫は日本語も料理も出来ない(泣)。ある日私が留守中の会話。弟"Aren't you hungry?" 夫"Yes!!!!" ところが弟は自分の部屋に消え去り、全く出て来ない。私が帰ると夫は"What is wrong with your brother!?" お腹空いてるって言ったから何か作ってくれると思ってたのに消え失せてしまった!!

  この程度だから笑い話で済むが、なぜそんな誤解が起きたかを説明してくれる人間がいない場合、イエス・ノーはもっと深刻なトラブルも起こしかねない。英語で話しているなら、英語式に、日本語で話しているなら日本式に答えられるのが理想だ。しかしこれも他の異文化習慣と同様、頭でわかっていても実際会話ですらりとイエス・ノーを使い分けることが出来るまでは時間がかかるものだ。そこで、日本語の授業で練習を入れたらどうだろう。

  「ブラウンさんは今日、沢山残業がありますね。今晩カラオケには来ませんね?」ここで問題。もし行くつもりだったら、どう答えますか。又は行かないのだったら?「はい、行きます」「はい、行きません。」「いいえ、行きます。」「いいえ、行きません。」。練習を積めば段々慣れてくるはずだ。

イエスとノーの罠

イエスとノーの使い方は英語でいう"minefield" (地雷原)。目に見えぬ危険があちこちに隠れている。英語での原則は、イエス=肯定、ノー=否定であるのに対し、日本語では、質問が否定形(〜ませんか?等)で、且つ質問者が否定の答えを予測している場合、イエス/ノーが逆になるので生徒達は混乱する。「お忙しそうですね。じゃ、今夜は来られませんか?」「はい、申し訳ないんですが、今夜は行けませんね。」という具合。英語では、あり得ない"Yes, ~not" の文が使われる。

 日本語で会話している場合ならともかく、怖いのは日本人が英語で話しつつ日本語式イエス/ノーを使ってしまうことである。"Aren't you going, Takeshi?" "Ah, yes.. very busy." というのはイエスとひとこと言ったばかりに「行く」ものととられかねない。

 他にも相づちの「はい、はい」を英語でも"yes, yes" と言ってしまうので、英語圏の
人間は「自分の意見に同意してくれている」という風に誤解する。こんな会話の最後で「まあ、この件に関しては本社とも検討した上でないと御返事しかねます。」などと急にネガティブなコメントが入ると狐につままれたような気がするらしい。

 "No"は日本語では常に婉曲に伝えられるのだが、それが通じにくい。「検討します。」「善処します。」「難しいですね。」などは「ノー」とはとられない。「難しいですね。」と言っても「ええ、確かにそうですが、是非協力して頑張りましょう。」といった答えが戻ってくるかもしれない。日本人なら言葉より、表情や語調、ボディランゲージで判断するが、英語圏の人間は言葉のほうに頼る傾向があるといっていいのではないだろうか。

小さなミスが起こす異文化摩擦

数年前教えていたクラスに、日本人をよくホームステイさせる、という中年のオーストラリア人女性がいた。その時も彼女は、若い日本人男性をホームステイさせていた。時々「どうですか?うまくいってます?」と聞くと、頷いていたが、ある日ちょっとした
悩みを打ち明けてくれた。「彼は本当にいい子です。私はとても好き。ただちょっと気になるのはね、私が "Would you like some coffee?" って聞くと、ただ"Yes" とか "No" と言うことなの。小さなミスなんだけれど毎日なので、段々嫌になってきちゃって・・。」 
  
  日本語で「コーヒーはいかが?」と聞かれたら「はい」又は「いいえ」だけでも、謙虚な仕草が伴っていたら、それは失礼にはならないだろう。が、英語ではどんな小さな子供でも、必ず"Yes, please." "No, thank you." と言うように躾けられている。プリーズ又はサンキューが抜けると随分横柄に聞こえる。だから彼女はそれが英語のミスだと知っていながらも頭に来てしまうのだ。直すのも何か子供を諭すようで、言いそびれてしまうのだろう。それは成人に教えている私もよく経験するジレンマだ。

  小さなことだが、ちょっとした言葉遣いが人間関係に響いてくる。もし彼の英語の先生が、イエス/ノーの正しい言い方を教えておいたなら、これは避けられたことだろう。言葉を教える者としては、忘れてならないことだ。

日本語クラスに異文化コミュニケーションを取り入れる法

著書にも書いたことだが、日本語コースは大抵"Japanese Language & Culture" と名付けられているにもかかわらず、「カルチャー」の方は、はっきり言って完全無視で、
時間があったらついでにちょっと触れる、ぐらいの扱いを受けているのが現状と言える。
こういう名前をつけた以上、半分が日本語、半分が文化であるべきだと思うのだが。
  
 「じゃあ、カルチャーも入れましょう。」と言うと、けっこう折り紙とか日本料理、又は歌舞伎、華道、などいわゆる"high culture"になってしまう。それはそれでいいけれど、これからの国際社会、もっと役に立つのは異文化コミュニケーションのスキルではなかろうか。

 「カリキュラムはすでにキチキチで文化だけに時間など費やせない」と言うなら、せめて言語学習に文化的要素を入れて欲しいものだ。昨日書いた「げんき2」の読解もその例である。他にINTERMEDITATE JAPANESEでも、日米間に起こりえる誤解例などが読解練習として入っている。勿論読んだ後には日本語で討論させ、スピーキングの練習をすることも出来る。このように言語学習に異文化理解の要素を取り入れれば、一石二鳥だ。こうした試みは中級レベル以上が多いようだが、できれば初級から入れて欲しい。例えば「どうもありがとうございます/ございました」はその場限りでなく、場合によっては後日「先日はどうも・・」という形で繰り返されるべきだとか、「すみません」は必ずしも自分の非を認める言葉ではなく、相手の怒りを鎮めるのにも使われる、とか。注釈だけでもあれば随分違うと思う。

  私の上司に日本語堪能な男性がいる。語学力も大したものだが、驚かされるのは彼の文化的センスだ。こちらは教える以外何もしたわけではないのに、学期末には必ず「今学期も色々とありがとうございました。」とねぎらいの言葉を忘れない。普段は文句ばかり言っている私だが、日本人としてはこの一言でかなり救われる。つまり彼のすごさは、英語ではサンキューと言わなくていい状況なのに日本人相手の場合あえてありがとう、と言う所にあると思う。これが異文化コミュニケーション「上級者」なのだろう。

Unhappy or Angry?

  コミュニケーションはコトバによるものだけでなく、ボディランゲージも重要な要素である。ちょっとはっきりした数字が思い出せないが、人は、コミュニケーション中に確か70−80%を言葉以外のものから読み取るそうだ。初級日本語「げんき」〈2〉という日本語の教科書の読解練習に日本人男性の二つの表情が写真で出ている。この表情をどう解釈するか、という調査で、最初の写真は国籍を問わず皆が「嬉しい」表情と答えた。が、二枚めの写真は、日本人の殆どが「怒っている」と答えたのに、アメリカ人でそう思ったのは66%だったそうだ。残念ながら、残る34%の解釈が書いていないので、今我が家の「ガイジン」に見せてみたところ、"unhappy" という答えだった。"angry" という可能性もあるが、
"unhappy" にしておく、ということだ。これは困った。では私がカンカンに怒ってるときに、うちの外人は「ちょっとムカついてる」というくらいにしかとっていないということか!

   この読み物の中には「嬉しい時とびっくりした時の顔は、言葉や文化が違っても殆ど同じだが、悲しい時や怒っている時の表情は、国や社会によって随分違うことが最近の研究によってわかった。」と書いてある。案外異文化でのすれ違いはこういった、あまりにも「自分たちと同じに決まっている」と疑いもしないような要素が原因になっていることが多いのではないだろうか。「私があんなに嫌な顔をしていたのに、むこうは全くかまわないような態度だった。」などというのは、相手が冷たいのではなくて、相手の、表情の解釈の仕方が異なるのかもしれない。こういった研究はもっとどんどん進めてほしいものだ。

異文化トレーニングってどんなもの?

 異文化コミュニケーションのトレーニングでは、ただ「どこそこの国ではこうするべきなんですよ。」といった知識を与えるだけでは完璧と言えない。前にも言ったように、人間、頭でわかっていても既に習慣となっていることはそう容易に変えられないものだからだ。

  そこで、実際ロールプレイをして、体験してみることが大事になる。その国であり得るだろう状況に身を置いてみて、自分に起きる感情を経験してみる。先日書いたが、英語圏の人間に、「間」をとらせてディスカッションさせるのもその一つだ。他にも、違うタイプの人間が一つのゴールに向かっている時にどんなコミュニケーションになるのかを生徒同士が演じて味わってみる。例えば、一人は自分でどんどん決めて事を進めていきたい人(欧米人に多いタイプ)、もう一人はじっくり考えて他の人間と相談してから決めたい人(アジア人に多いタイプ)になり、何かを話し合ってみる。お互いの違いについてはもう知っていても、いざ会話になると予想以上の苛立ちを経験するかもしれない。

  こんな練習したって、結局自分流を変えられないなら意味ないんじゃない?と思われるかもしれない。が、こういう模擬体験をしておくと、「本番」になった時にある程度自分を客観的に見られるというメリットがあるはずだ。今、自分はイライラ、カッカときてるけど、これはクラスで練習した時もそうだったな、と。

  もし生徒が日本に行って住む、又は働く予定なら、こういったトレーニングを日本語の授業に取り入れるべきだと私は思う。日本に行かない人でも日本人と一緒に働いたり取引しているなら、必ず役に立つはずだ。私もお説教をするばかりでなく、もうちょっと積極的に機会を作ってみよう。

異文化理解ビジネス

  先日、小泉首相とライス国務長官が会談しているのを見てぎょっとした。ライス国務長官は、割と短めのスカートをはいているにもかかわらず、かなり大胆に脚を組んでいたからだ。米国での会談ならともかく、日本での会談である。いかがなものか、と思ってしまう。あれだけ位の高い人の訪日なのに、米国側で誰もアドバイスをしなかったのだろうか。それはちょっと驚きだ。なぜなら、アメリカには異文化コミュミケーションのトレーニングを専門にしている会社がいくつもあるからだ。

  ビジネスの世界で異文化マナーを無視すると、最悪の場合は契約がパアになりかねないし、他にも海外転勤させた社員がカルチャーショックで戻ってきてしまったりすることもあるそうだ。そうすると、転勤に関して会社が負担した諸費用がすべて無駄になるということ。ビジネスに限らす政界でもやはり、自国の感覚でばかり物事を判断していると外交にひびくだろう。そう考えると異文化理解は経済にも影響を与えるといっても過言ではないのかもしれない。それなのに、豪州ではいまのところ、異文化トレーニング会社は皆無に等しい。一人、アメリカのトレーニング会社の支社を作ろうとした女性を知っているが、全くふるわなかった。私も一度働いているカレッジでその種のコースを宣伝して貰ったが、四人ほどしか申し込みがなくキャンセルされてしまった。異文化コミュニケーションの重要さに人が目覚めるまでにはまだ時間がかかりそうだ。ライスさん、私の生徒になりませんか。

多文化的コミュニケーション術

一人の人間が多文化の集成だとすると、効果的なコミュニケーションを努める時にはしんどい話になる。例えば豪州人女性が日本人男性とビジネスで交渉するとなるとどうだろう。これだけでもう豪州人女性は二つの不利な条件を抱えている。その1、外人。その2、女。外国の会社というだけで、日本では不信感が高まる。これは私も豪州企業で働いていた時に経験済みだ。外国企業だというだけで、広告も出させてくれない出版社もあった。日本人の私が頼んででも、である。これが西洋人女性、しかもエクゼクティブとなると又色眼鏡で見られる。会議室にいてもお茶汲みか秘書と思われるのが関の山だ。

  そこで、日本企業の信用を手に入れる為に、西洋人女性エクゼクティブ達は色々と努力をしているようだ。(Doing Business With Japanese Men: A Woman's Handbook )例えば、部下達と一緒に日本人と会議をする時、部下に最初に部屋に入らせ、真ん中の席を空けさせておく。そして自分が最後に入り、おもむろにどっしりと腰をかける。これだけで、何も言わなくとも日本人には「この女性が一番エライんだ」と分からせることができるのだそうだ。又、名刺にも日本人にはよく理解して貰えないような専門的なタイトルは刷らずに、わざとシニアマネージャーとか、ディレクター等、位の高さがすぐにわかるタイトルに変えるのだとか。

  女性エクゼクティブなど全く珍しくない豪州だが、やはりビジネスの世界では、女であるがゆえに出世にも限界があるらしく、glass ceiling 「ガラスの(目には見えぬ)天井」という言葉さえ存在する。同僚といえば殆どが男、仕事の後で一緒にフットボールを見る、というのも家で待っている子供を思うと辛いものがあるらしい。これが日本なら、フットボールがカラオケになるだけで、やはり女である以上、「火星から来た男」(昨日のエントリー参照)と張り合うのはそれなりの覚悟がいるだろう。

  しかし、日本のビジネスカルチャーは女性のほうが理解しやすい、という西洋女性の意見もある。「日本のビジネスでは、人の言うことをよく聞くのが大事。これは女性のほうが得意です。それに細かいことを見落とさないようにすること。これも女性的。ゆっくり時間をかけて人間関係を強めて行く。それはスピード重視の男性には苦手な分野です。」
  
  
  

誰もが多文化な人間である

異文化と言う時さすものは、別に外国文化に限られない。どこの国でも少なくとも次のような異文化が混在しているのではないだろうか。

  1 都会文化と地方文化 
  2 年齢層による文化
  3 性別による文化
  4 階級による文化
  5 各家庭の文化
 
  数年前、ジョン・グレイという人が書いた"Men are from Mars, Women are from Venus" (男は火星人、女は金星人)という本がベストセラーになった。男と女ではコミュニケーションの仕方が全然違うんだよ!だからすれ違いがあるんだよ!というメッセージに「目から鱗」の読者が続出した。例えば、女が男に悩みを打ち明ける時、女性はただ聞いて欲しいのに、男性はすぐ解決法を提案しようとする。逆に、男は問題を抱えている時、一人になって考えたいのに、女はすぐ根掘り葉掘り聞いてくる、などなど。こういった問題は面白いことに国籍を超越したもののようだ。もっと単純なとこで、人が見てるのにどんどんチャンネルを変えてしまう夫にむっときている妻は世界中に何人いるだろう?(笑)

 とにかく上に挙げたような要素を考えると単一文化に属する人間はいないことになる。私は東京で生まれ育ったが、親は関西系である。(すなわち都会/地方文化の混在)。中流家庭の中年層、性別は女で、今はオーストラリアという西洋社会に身を置いている。これだけでもう五ー六の文化にかかわっている。だから生徒に「日本人」や「日本文化」について聞かれる時、あまり軽々しく十把一絡げに答えてはいけないと思う。そして、生徒達にも自分の属する文化について考えるきっかけを与えなくてはならないだろう。
 
  

 
  

異文化二重人格

   シドニーに来て挙式をする日本人観光客を手伝うバイトをやっていたことがあった。そこでは日本語と英語ができる日本人もしくはオーストラリア人が雇われていた。ある日私はオーストラリア人女性Kと働く機会があった。彼女の日本語はなかなかうまかった。笑顔で「ありがとうございま〜す!」「よろしくおねがいしま〜す!」と、接客も感じがよい。午前中の仕事が終わり、客も帰った後で、彼女はもう一人のオーストラリア人と休憩をとりに行った。たまたまその場に居合わせた私は驚いた。彼女はタバコに火をつけるなり、さっきとはうってかわった低音の声で、話しだした。英語を聞いていてもなんだか品が悪く、前の可愛さは全く感じられない。まるで別人だ。
  
   つまり彼女は日本人の前では日本人に受ける、可愛い女を演じていたのだ。恐らく日本で生活した時に身につけた処世術なのだろう。異文化でのサバイバル法として、このように「本当の自分」を捨てなくてはいけないことは頻繁にあると言ってよい。考えてみると、日本にいながらも、これはあるのではなかろうか。会社の上司の前では可愛い女の子、しかしアフター5は全く違うヒト。

   オーストラリアでいつも「日本人」をやっていてはとても生活していけない。遠慮しないでどんどん自己主張しないと無視されて、損するばかりだ。しかし毎日それをやっていると日本人同士になっても日本に帰っても、なかなかもとに戻れなかったりする。英語の調子でダイレクトな会話をしてから、あんな言い方しては失礼だったかな、とはっとすることもある。価値観も変わっている。日本で何かを見て「えっ!こんなこと、オーストラリアでは絶対許されないわっ!」と思うようなこともある。(帰国子女の悩みもこのへんにあるのではなかろうか。)

   一番困ったのは、日本語教師の仕事の面接に行って、面接官が、オーストラリア人一人と日本人一人だった時だ。オーストラリア人とは握手、しっかり目を見ながら自分がいかに素晴らしいか(!)、説得しなくてはいけない。日本人の面接官には丁重にお辞儀をし、自分の能力については控えめな表現で答える。しかしこれを、同じ部屋で同時にするのだから、なんだかどれが本当の自分なのかわからなくなってきてしまった。完璧なバイリンガルもなるのは難しいが、完璧なバイカルチュラルはそれにも増して至難の業だ。
  

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オージーは脱ぐ派?

一昨日のヌーディストビーチ・ストーリーで、私はオーストラリアン・キャラを「脱ぐ派」に仕立てた。それに貢献した一つの理由がある。数年前、Spencer Tunickという集団裸体写真で有名な写真家が、メルボルンにやってきた。そして彼の写真に裸でボランティアをしてくれる人を募ったところ、なんと四千人が(しかも寒〜い朝)集まったというのだ。(集団裸体写真って何だ?、という方はこちら
http://www.i-20.com/artist.php?artist_id=19&page=images&work_id=203 )。 
こういうことをさらっとやってのけるオーストラリアン気質が私は大好きだ。自分が「脱げない派」だからだろうか、見ていて気持ちがいい。その奔放さが羨ましくさえある。この写真家は日本にも行っているが、勿論日本で四千人が素っ裸になって待っていてくれるはずはなく、若い子が数人、早朝の閑散とした町中で協力してくれたようだ。(これはテレビのドキュメンタリーで見た。)
  
「裸になってはいけませんよ」というルールを、「でも今はいいですよ」と言われてすぐに破れるオーストラリア人と、それでもやっぱり出来ない日本人。ここには何か異文化順応の基盤が隠れているような気がしてならない。



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ヌーディストビーチ論

  この国ではこうこうするべきだ、と頭では異文化を十分理解しているのに、いざ行動となるとできない。結局自国流に戻ってしまう。これは異文化に放り込まれた誰もが経験していることのようだ。私はこれに関して一つの理論(のようなもの)を持っている。この現象は誰かがヌーディストビーチに連れて行かれた時と似ているのではないか。(と、連れて行かれたことはないが想像してみる。)あなたは、子供の時から「裸で人前に出るのは恥ずかしいですよ」と母親に教わっている。だから今までずっと服を着て過ごしてきた。勿論回りの人達も皆常に服を着ていた。ところが、オーストラリアに来て、友達がヌーディストビーチに連れて行ってくれる。着くと老若男女みんなが素っ裸で歩いている。服を着て突っ立っているのは自分達だけだ。いやでも目立ってしまう。あれ!あの人、服を着ている!という感じでジロジロ見られる。連れてきてくれたオーストラリア人もヌーディストビーチは初めてなのだが、「面白いなあ、じゃ、やってみよう!」とさっさと服を脱ぎ、海まで走って行ってしまった。残ったのはあなた一人。さあ、どうする!?
 
  ここで「次回をお楽しみに」と言いたいところだが、結末はあなたの「異文化受容行動力(と呼ぼうか)」にかかっている。このオーストラリア人も普段は服を着ている人なのだが、異なる環境に来た時に「なんか面白いな、じゃ、もうここのルールに従っちゃえ!」と文字通り「ひと肌脱ぐ」(笑)。しかしあなたはまだ戸惑う。「そんな!いくらなんでも恥ずかしいわ。なんだか向こうの家から双眼鏡かなんかで見られてるんじゃないかしら。やっぱり服を着たままここに座って待ってよう。でも、友達が素っ裸で帰ってきたら目のやり場がないなあ。どうしよう。どうしよう。」結局この二つのタイプに分かれるのではなかろうか。割と簡単に新環境に融合、順応し、今までと違うやり方をエンジョイしてしまう人と、自分のカルチャーの価値観に固執し、例え自分の今までのやり方が、新文化では否定され、そこでのやり方に従ったほうがずっと肯定的に受容されるということがわかっていても自分流を変えられない人。あなたはどちらだろうか。

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聞くべきか話すべきか

 文末を待たずに次の人が発言をする英語式討論は、火花が散るような活気とテンポがある。しかし、そんなに速いテンポで話す時、彼らには考える時間があるのだろうか。なんとか相手を説き伏せようとしているなら、相手が話している間も頭の中は「次に何を言ってやろうか」、ということで一杯なのではなかろうか。自己主張も重要だけれど、相手の言い分をじっくり聞いて、よく理解しようと努めるのもコミュニケーションにはなくてはならない部分だと思うのだが。
 
 どちらにしても自分のカルチャーで慣れ親しんでいる話し方は、いざ異文化に身を置いた時、そう簡単に変えられるものではない。私は大学時代、何度も、もっと発言しよう、と努力したが、結局聞き手に回ることが多かった。一度、大学の大講堂で講義があった時、マイクを持って話していた教授が、何百人という学生に向かって意見を求めた。その時、大講堂の一番後ろの方からも、何人もの学生が大声で意見を叫んでいたのに驚いた。日本人に、ここまで、出来ますか?これは語学力の問題ではないと思う。
 
  しかし逆に、彼らに日本式で討論せよ、と言うとそれも不可能に近い。ある異文化コミュニケーションのトレーニングビデオで、実際これを強制しているところを見たことがある。彼らは相手が話し終わるまで、絶対に意見を述べてはならない、と言われる。みんなもうもどかしくてムズムズしているのが明らかだ。酷(?)なことに、その次には相手が話し終わってから数秒の「間」をおかされる。ここまでくるともう、イライラの絶頂だ。しかし、中には「いつもより相手の言うことをよく理解できた。」と長所を感じる参加者もいた。
 
  このようなビデオを見せてturn takingということを考えさせると、日本人とビジネスをしている生徒は「目から鱗」となるようだ。毎日感じている「日本人の不思議」が解けるからだろう。一つ、鋭い指摘もあった。「日本人が文の最後まで待つのは、日本語では肯定か否定かが、文末まで分からないからじゃないですか。」それは、確かにそうだ。でも、それが唯一の理由だろうか。考えていきたいテーマだ。


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発言のルールをご存知ですか

 昨日の記事を書いてから、ちょっと考えてみた。なぜただ「カズ」と一言言うのがそんなに難しいんだろう?そう思って閃いた。あ、やっぱりアレだ。あれです、あれ。私の一番大好きな異文化コミュニケーションのトピック、"turn taking" というやつ。ここでいうturnとは「曲がる」じゃなくて「順番」という意味。結局私は相手がひとつの文を言い終わるのを待っているから機を逃してしまうのだ。

日本人の会話には、次のようなパターンがある。Aさんが話す、終わったら Bさんが話す、そして又Aさんが話す。又は、Aさんが話す、終わったらAさんもBさんもちょっと考える(つまりここに「間」がある)。で、今度はBさんが何か言う。ところが、英語の会話のパターンは全く違うのだ。Aさんが何か言うと、その文がまだ終わってないうちにBさんが飛び込む、で、Bさんがまだなんか言ってるうちに、又Aさんが言い始める。つまり、重なりはあれど間は一切なし。だから沈黙の「間」を待ってる日本人は、討論などに加わってもな〜んも言えないまま終わってしまう。これはけっこう深刻な問題だ。ビジネスミーティングなどで豪州人と日本人が話す時、日本人だけ何も言えなかったら結果はどうなるのか。しかも英語圏の人はミーティング中に何も言わない人を「意見がない人間」「このトピックに関心のない人間」だと見下すこともあるそうなのだ。恐ろしいではないか。この対策としてロッシェル・カップ氏は、著書ビジネスミーティングの英語表現の中で人をさえぎってでも何かを言え、とアドバイスしている。(この本はCDまで付いたビジネス英語の本だが、異文化コミュニケーションに関する話も非常に興味深い)。また、坂本ナンシー氏は英語圏の会話を「ボールを落とさないように双方からぽんぽんと打ち続ける」テニスに、日本語の会話を「順番を待ってボールを投げ、他の人はそれをじっと見ている」ボーリングに例えている。(異文化間の理解と誤解 Polite fictions: why Japanese and Americans seem rude to each other )なるほど!と思わせる比喩だ。一人はテニスをしていて、もう一人はボーリングをしているのに、二人が同じルールを共有していると思い込んでいたら、衝突が起きないほうがおかしい。

ファーストネームかラストネームか

  日本語教師の収入というのは非常に不安定なので、数年間、オーストラリアの会社でパートをしていた。そこでは新規の客には「こちらから電話や手紙を差し上げる際、どのような呼称を希望しますか。」と聞くことになっていたのだが、答えは圧倒的に「ファーストネーム」であった。ミスター、ミセスなんとか、というフォーマルな呼び方を好むのは、どちらかというと年配のお客さん達だけだった。その会社は日本にも顧客があり、それで私が雇われたのだが、またしても放っておくと「Dear Yasuo」などと手紙を送ってしまいそうなので、日本では名字を使うのが普通だ、と助言した。
  
  このようにカジュアル傾向の強い豪州社会だが、たま〜にミセスに名字をつけて呼ばれることがある。こちらが客である場合、日本人の私としてそれに違和感はない。が、店頭でならともかく、もう少し長期的な付き合いになる場合だと、あちらは私が「ファーストネームで呼んで」と言うのを待っているようである。映画など見ると皆それを非常にさりげなく、かっこよくやっている。「何々と呼んで。」と言わず、ただ「ジョン」とか「キャサリン」とか名前をひとこと言うだけでいいみたいだ。しかし私はなかなかそれができない。というのは私のファーストネームが外国名である為、ただ突然「カズ」といっても何のことかわかってくれないのでは、という不安があるのだ。それなら「コール ミー かず」でいいのだろうけれど、それでもどうもタイミングがつかめない。そうこうしているうちにその人と会う回数がどんどん増えていき、いつまでたっても「ミセス」で呼ばされている不満が漂っているように思えるのは、考え過ぎであろうか。こんなことで人間関係に支障が出てくるのなら、異文化交流の名のもとに、もっと勇気を出さねばならない。

 そういえばアジア系の生徒たちは通常英語名を持っているが、英語の名前があるとこんな時に便利だろうな、と今ふと思った。



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先生をどう呼ぶ

 こちらの大学に入って間もない頃、もの凄いカルチャーショックを受けた。ある講義に出た時、四十代後半の「博士」を、昨日高校を出ました、というようなそばかす顔の女の子が、ファーストネームで呼んだからだ。さらに驚いたのは「博士」がそれを気にも止めず平然と応対していたことだった。学期が始まってすぐ、第一回の講義である。英語圏ではファーストネーム、というのはわかっていたつもりだった。しかし、大学で、こんなに身分(?)の差がある場合もそれでいいとは・・。

 自分が教える場合も、放っておくと生徒たちは私をファーストネームで呼ぶ。私はそういうことはあまり気にならないほうだが、ゆくゆくは日本に行って日本の大学で勉強する、というような生徒である場合は「先生」と呼ばせるように徹底しないと、日本で非常識と思われるだろう。「ありがとう」じゃなくて「ありがとうございます」、「じゃまたね」じゃなくて「失礼します」、等、母国語に異なったレベルの話法がない生徒に定着させるのはハードワークだ。既に覚えてしまったものはなかなか変えられない。
 
 回りの先生を見ると自分よりずっと「日本式」にこだわる人が多い。試験中に前のイスにボンと足をのっけている生徒に注意したほうがいい、と言われたこともある。オージー化している(?)私は「別に誰に迷惑かけてるわけでもなし・・」と思ってしまうのだが
・・。オーストラリアにいてどこまで日本式を徹底させるべきなのだろう。どこまでが教師としての義務で、どこからが余計なおせっかいなのだろう。微妙な境界線があるようだ。

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寿司屋と日本語教師の共通点

生徒に「日本料理には何があるでしょう?」と聞くと、大抵「寿司」が一番に挙げられる。私は寿司に目がない、というほどではないが、先日寿司屋のかみさんうちあけ話という本を読んでみた。最初のほうは、ふんふん、なるほど、へ〜そうなの、と思いつつ読んでいたが、終わりに近づくにつれ、なぜか「同業者」の感覚が募ってきてしまった。お寿司屋さんと日本語教師ってなんて似てるんだろう!!などと突然叫んだら変に思われそうだが、本当にそう思ったのだ。

結局この本に出てくるような良心的なお寿司屋さんというのは、お客さんの満足、幸せを追求している。その実現の為には金銭的利益は最優先でなくなる。何年にもわたって色々なお客さんの人生を垣間みることが多く、家族のように頼られたりもする。又は直接かかわって、ひねくれていた若者を雇い更生させたりすることもある。いいお客さんが多いが、なかには大事な商売道具の寿司桶に吸い殻を残すような、どうしたって許せないような人間もいる。そして、「お寿司やさんなんて楽でいい」と羨んでいた鰻屋さんも、聞いて驚くような仕込みの苦労がある。

日本語教師も似ている。日本人なら誰でも出来る「日本語を話す」ことでお金を稼いでいる、と羨まれる。が、日本人なら誰でも教えられるわけではない。マグロと米さえあれば誰でも寿司を握れる訳ではないのと同じだ。それなりの修業をして初めて出来ることだ。又、生徒は「お客さん」なので、できる限りの顧客満足をめざさなくてはならない。でもなかにはどうしても難しいお客さん、非常識なお客さんがいる。それになんとか対応しなくてはならない。そして日本語教師も舞台裏にはきりがないほどの「仕込み」がある。教材作り、採点、ミーティング、などを何時間もかけてしている。

勿論世の中に楽な仕事などないということは分かっている。しかしお寿司屋さんも日本語教師もなんとなく楽に思われそうな職業なのかもしれない。そういう意味で、裏の苦労に思わず共感してしまったのだろう。そして、人を喜ばすことに尽くす「心」に心を打たれた。